「チェンジリング」

日曜の夜、仕事帰りに
クリント・イーストウッド監督の最新作「チェンジリング」を見に行った。
有楽町マリオン日劇PLEXで見たんだけど、最近TOHOシネマズに変わったようだ。


1928年のロスが舞台。
シングル・マザーであるクリスティン・コリンズはある日1人息子をさらわれる。
5ヵ月後、その息子が見つかったとして警察の手により連れ戻されたが、
目の前に現れた子どもは全くの別人だった・・・
自分の子どもではないと彼女は警察に何度も訴えるが、逆に嘘つき呼ばわりされる。
本部長が変わってから評判のよくなかったロス市警のイメージをよくするために
華々しい親子の再会を演出した手前、今更誤りを認めるわけにはいかない。
というか、所詮は「女のたわ言」相手にしてる暇がない。
息子を探し出したい一心のクリスティンは執拗に食い下がり、
挙句の果てに錯乱していると精神病院に放り込まれる。
彼女がそこで目にしたのは、同じく警察に疎まれて病院に厄介払いされた
女性患者たちの姿だった。
その頃、子どもばかりを狙った連続殺人鬼が逮捕され・・・


さすがクリント・イーストウッド。心の中で唸りながら見た。
演出の何たるかをわかってるよなー。
見てる間、心の中を巧みに操られっぱなし。
劇映画の監督として現役最高峰だと思う。


でも、個人的な印象として、
ミスティック・リバー」や「ミリオンダラー・ベイビー」の域には達してないかなと。
あるいは、「ペイルライダー」や「許されざる者
完成度は十分に高いけどね。
今挙げた作品には神懸り的な崇高なものがあった。
父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」から徐々に薄れだして、
チェンジリング」ですっかりなくなったように思う。
でもそれは霧が晴れたようでもあり、灰汁が抜けたようでもあり。
これまでは作る映画のことごとくで何らかの映画のマジックが起こることを期待して
実際それが毎回起こるので、さすがだなーという感じだったんだけど、
今回はそういうの全く頼らずに自分自身と向き合って持てるものを丹念に積み上げていった、
そんな作品のような気がした。
それであってもものすごい高みに達したわけで。
さすがだ。前以上に尊敬する気になった。
10年後なんかに振り返ってみると、
チェンジリング」は過渡期の作品として扱われることになると思う。


序盤の、取り替えられた息子(「チェンジリング」という言葉が正にその意味)
を押し付けられて暮らし始め、警察も取り合ってくれないという場面が続いていく、
その居心地の悪さ。正に悪夢。
どんなホラー映画よりもぞっとさせられた。心の奥の本質的な部分で怖かった。
あと、殺人犯が絞首刑になる場面、13階段を上ってからのあの凄み。
いや、その前の、真実を教えてくれと詰め寄る、死刑前日の面会の場面。
・・・気がついたらまたしても、あの場面がよかった、この場面がよかったとなってしまう。
数々の殺人がなされた世界の最果てのような牧場を映し出す、乾いた光。
砂煙が舞う。「許されざる者」を思い出す。
幻想としての西部劇、追憶としての西部劇を撮らせたら右に出るものはないな。
(というか今やクリント・イーストウッド以外に誰も撮らないか)


アンジェリーナ・ジョリーがよかったですね。
セクシーなアクション女優ってイメージだけで捉えていた。
これまで縁がなくて、たぶん初めて見たかも。


エドワード・ホッパーの代表作の幾つかは1920年代から30年代に描かれていて、
チェンジリング」の時代と合う。
アンジェリーナ・ジョリーの衣装、特に釣鐘型の帽子をかぶった姿は
エドワード・ホッパーの絵から抜け出したようで、
ああ、あの時代ってこうだったんだと頭の中でイメージがつながりあう。
というか、エドワード・ホッパーって20年代のまま、時間が止まってしまったんだろうな。
それがあの独特の乾いたノスタルジアに満ちた絵を生んだのか。
帰り道、そんなことを考えた。