先週の土曜。
朝6時に目が覚めて、そこから3時間の映画。午後にまた、1本。
この日はテオ・アンゲロプロスを見ようと決めて、まずは1995年の「ユリシーズの瞳」
そして1991年の「こうのとり、たちずさんで」
どちらも、テオ・アンゲロプロスDVD-BOX全集の第2巻に入っている。
この全集、1つ、20,000円近くする。大枚はたいて5年前に4つのうち3つをかったというのに、
ずっとほったらかし。ようやく見る気になった。
テオ・アンゲロプロスを見るっていうのは、なかなか勇気がいるんですよ。
それ以上に、体力と時間。
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「ユリシーズの瞳」
ハーヴェイ・カイテル主演、戦火のサラエボを舞台ということで話題になった作品。
ギリシア出身、今はアメリカに住む映画監督がギリシアに戻ってくる。
20世紀始めから半世紀近く、バルカン半島の歴史を撮影し続けた
マナキス兄弟の最初のフィルム3巻(それはバルカン半島最初の映画だった)
を捜し求めて、監督はギリシア〜アルバニア〜マケドニア〜ルーマニア〜ベオグラード〜サラエボと旅する。
その先々で(ユリシーズの出会う4人の女性を模した)女と出会う。
戦火に晒され、廃墟と化したサラエボにて監督はフィルムとの邂逅を果たす。
しかし、フィルムを守り続けたサラエボ映画博物館の館長とその娘は深い霧の中で・・・
重層的に物語が進んでいく。
・バルカン諸国の、特に20世紀の歴史
・マナキス兄弟の流転の生涯
・フィルムに映し出された光景
・ユリシーズになぞらえられた、監督のさすらい
・それぞれの女たち
監督は時としてマナキス兄弟の1人となり、あるいは幼少時の記憶の中へ。
例によって1つ1つのカットが気が遠くなりそうなぐらいに長く、カメラは重々しい移動を続ける。
だけど見てて3時間があっという間。
そこでは濃密な時間が流れていて、常に緊張の糸がピンと張り詰めている。
「失われたフィルムを探す」という目的がはっきりしているせいか、ストーリーもさほど難しくない。
アルバニアの吹雪の荒野に立ち尽くす人々。
艀に乗せた巨大なレーニン像が川を流れていく、それを目にした川岸の人々が十字を切る。
戦闘が小休止となって、民族混交の市民オーケストラが広場で演奏をする。
忘れられない風景、場面が多かった。
それ自体がいつか神話になるかのような。
民族間の対立。争いの歴史。
監督が向かう先々で辛い現実が待ち受ける。
テオ・アンゲロプロスが願うのは、ストレートに、そこに住む人々の安寧な暮らしなのか。
テオ・アンゲロプロスは常に名もなき市民だけを映し続けてきた。
全てがロケ。
サラエボでの撮影は叶わず、モスタルとブコバルで撮影されたという。
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川を挟んでアルバニアと国境を接する北の町。
その外れに「待合室」と呼ばれている一角がある。
トルコ人やクルド人、アルバニア人。
自由を求めて国境を越えてきたもののビザが発給されずに宙吊りになった人たちが住んでいる。
彼らには戸籍もなく、名前もない。
上下黄色の防護服に身を包んで、電線工事に携わる。それぐらいしか仕事がない。
テレビ番組のジャーナリストがクルーを引き連れて彼らのことを取材する。
撮影したテープの中に、10年前に失踪した大物政治家の姿を見つける。
彼らの中に溶け込んでしまっていて、すぐには気付かない。
ジャーナリストは政治家の元の妻に会い、2人を引き合わせようとするのだが・・・
過去を隠す大物政治家がマルチェロ・マストロヤンニ。
その妻がジャンヌ・モロー。
たった一箇所だけ再開のシーンがあって、そこではどんなセリフが語られるか。
ほんとニクイよね。
徹底して、今、この現代を描く。
「霧の中の風景」もそうなんだけど、前後の世代の作品と比べてタッチが全然違う。
70年代の「旅芸人の記録」と80年代初めの「アレキサンダー大王」
90年代半ばの「ユリシーズの瞳」と90年代後半の「永遠と一日」
これら歴史を描こうとしているから、悠然とした空気が流れている。
でもその間の、「こうのとり、たちずさんで」と「霧の中の風景」には
何よりもヒリヒリとした空気が立ち込めていて。
神話になることも拒否している。
今、ここで、問題は起きているのだ、安易に風化させてはならない、
という強い意思の表れを感じる。
「ユリシーズの瞳」もまた、今、ここを扱っている。
しかし、それは歴史と拮抗する大きなうねりとして描かれているわけで。
大きな一歩を踏み出したってことになる。
「ユリシーズの瞳」の評価の高さはそこにあるのではないか?と思った。