子供たちの絵

アパートの近くの小学校が取り壊されて、新しい小学校へと建て直されることになった。
だいぶ前に更地になって、工事現場の囲いで覆われて、
以来ずっと工事が行われているが、建物が建つ気配は全くなし。
でもクレーン車は敷地の中で時々動いているし、ダンプカーも出入りしているし、
今はきっと基礎工事の時期なのだろう。
小学校ともなれば建物のサイズが民家とは何十倍、もしかしたら何百倍も大きい。
そうなると時間もかかるか。掲示板を見たら、完成は確か来年だったような。


この囲いに、小学校の生徒たちの絵が貼り出されている。
画用紙にクレヨンで描いて、
その上を薄手のプラスチックのカバーのようなもので加工している。
低学年の子供たちが描いたものなのだろう。
お人形さんのような女の子や校舎、動物たちを描いた、
バランスを欠いて稚拙だけど、大胆でカラフルな絵。
どれもこれもが賑やかで楽しそうだ。
無数の絵が囲いいっぱいに無数に並んでいて、
僕は会社の行き帰り、毎朝毎晩眺めることになる。


どれもクレヨンで描かれている。水彩の絵の具ではない。
だから、青空を描くとなるとどれも同じ水色となる。
なのにどれも違う水色に見える。
そのことに気付いたとき、不思議に思った。
ほとんどの子供たちが自分たちが慣れ親しんだ校舎を描いていて、
大きかったり小さかったり、ゴツゴツしていたり丸かったり、どれもまるで違う。
なのに白い壁に並んだ黒い窓の群れで、一目見て後者だと分かる。
だけど同じような絵は、同じ色の絵は、1つとして存在しない。


好きなように描きなさいと言われて、好きなように描く、そんな幸福な時代。
それが中学校、高校と進んでいくにつれて、求められたことに従う能力も向上、
ほとんどが同じような絵に集約していく。
その後の人生でも、以下の3つに分類されてそれっきり。
?美大に行ってどんどんその個性を広げていく人。
?絵は元々うまいけど本格的に描くことのない人。
?元々うまくもないし、全く描かない人。


?の人は、画用紙とクレヨンを渡されて
「好きなように描きなさい」と言われても途方にくれるだけだろう。
どうしてこういうことになってしまうのか。
それが「教育」というものなのか。
個性を尊重するようでいて、
その個性の伸ばし方は地域や学校や先生によって全然違うのだと思う。
掴みどころがなくて、与える側も与えられる側もうまくはまらない。
そんな中、与えられた型にはめられて窮屈と感じて放り投げるか、
その型を鮮やかに脱ぎ捨てて自らの型を見出すか。
過程はどうあれ、「何もしない」「何もできない」ことを
多くの人が選び取るようになるのではないか。


少なくとも僕にとって、絵を描くというのは楽しいことでもなんでもない。
描けないし、描かない。
言葉で説明できるならそれでいい。そのスキルを伸ばせばいい。
それでもう長いこと過ごしてきた。
こんな僕にも絵を描くということが楽しい時期があったんだろうな。
でも、何も、思い出せない。