ダイアログ・イン・ザ・ダーク(その2)

(言葉で書いても大事なことは何も伝わらず、
 一人ひとりの人間が体験すべきと思うが、それでも書き残しておく。
 家があった、ブランコがあった、バーがあったということを「読んだ」としても、
 それは「知った」ことにはならない)


目を閉じてみる。
網膜に浮かぶかすかな残像が、わずかながらもそこに光が無いか追い求める。
やがてそれも消えていく。
目を開けていても、閉じていても、一緒になる。
盲いた人たちの世界は、こんなふうなのか。


カーテンをくぐると、森が広がっている。
小鳥たちがさえずり、足元には(触らなかったけど恐らく)土か大粒の砂、
手に触れる木々、そして森の匂い。
この辺りはまだ、「自分は暗闇の中でバーチャルな森を体験している」という感覚が強い。
アテンドの方に手を引っ張ってもらって、森の外れにある池まで。
しゃがむとそこにひんやりとした水面がある。
暗闇の中で水に触れるってのは何やら宗教的な儀式、秘儀のようにも感じられて。
ここから急速に暗闇の世界へと引きずり込まれていく。


アテンドの指示の元、パーティーが少しずつ動き回る。
自然と杖を使って足元を探るようになり、声のする方に絶えず気を配る。
皆から離れないようにする。
ぶつかると「誰ですか?」「○○です」といったやりとりがなされる。
声を掛け合うって日常生活だとほんとなくなっている。


丸太を3本渡しただけの橋を渡る。手すり無し。
自分の足の感覚と全身のバランスで渡っていく。
(こういうの最初にやるのはたいがい、僕)


渡り終えるとそこにはおじいちゃんの住む家があって、縁側に上がる。
この辺りだっただろうか、足元がコンクリートになる。いや、この先だったか。


そこには家があって、確かに縁側があった。座ってみる。
後ろに倒れこんで、寝転がると畳があって、その先には座布団があった。
誰かが「ちゃぶ台があった!」と喜びの声を上げる。
靴を脱いで皆、上がりこむ。
(後でここまで戻って来れて、ちゃんと履けるだろうか?ってのが皆、気になる)
手探りで部屋の中を進んでいって、そこに何があるかを各自探ってみる。
ちゃぶ台の上には野菜が置かれていた。
しんなり、ドテッとしたキャベツ。
ゴツゴツ、無口なかぼちゃ。
デコボコ、ツルッとしたみかん。
あー野菜や果物の感触ってこうだったよなあ。
それぞれに手に触れる表情と存在感があるんだよな。


部屋の隅には棚が置かれ、麦藁帽子が乗せてあった。
昭和の時代の黒電話、鉛筆、メモ帳、鉛筆削り。
この頃には、視覚以外の感覚、手に触れるもの、空気の流れ、ちょっとした音の違い、
そういったものに少しずつ敏感になって、
その空間の在りようを認識、再構成できるようになっている。
視覚的なイメージを補完する、頭の中に映像を思い浮かべる、というのではなく、
視覚がなくても十分にそれができる、自然にできるというか。
一言で言うと、割と馴れてしまっていた。
そこに何があるか分かっていたならば、普段の生活もある程度可能となるだろう。
視覚障がい者の方たちの生活って、こんな感覚なのか。


みな、縁側に戻って来れて、各自の靴を履いて外に出る。
庭の隅にブランコがあるという。
2人掛けの木造の。ここに2人ずつ乗ってみる。
揺れる。揺らす。
暗闇の中で動きのあるものに身を任せる。
いつもよりその重力のかかり方というか、力の流れが強く、強く感じられる。
それまでは自分の足で歩いて、全身で動いていた。そこから解き放たれる。
何気ない遊具のようであって、感覚の体験としてはこれが一番強力で発見があるかもしれない。
ここにブランコがあったのは、あくまでも必然性によるものなのだ。
全てのアトラクションに、意味がある。
いろんな角度から、人間の感覚とはどういうものなのか、問いかける。


庭にあった切り株に腰を下ろすと、牛の鳴き声が聞こえた。


(続く)