名付けえぬもの

ある朝目覚めると君は「彼女」の「中」にいることを知った。
そこはいつも通りの君の部屋だった。
だけど君はそれと同時に、彼女の中にいるのだった。
それがどういうことなのかは分からなかった。
ただ、彼女の中にいるというだけだった。


朝食を作ってテレビを見ながら食べて、スーツに着替えて会社に出掛ける。
満員電車に揺られて、地下鉄に乗り換える。
仕事をする。昼食を取る。会議に出る。仕事をする。
帰りに街に出て、あれこれと欲しいものを眺める。何も買わずに帰ってくる。
スーパーで食べるものを選ぶ。


そしてまた一人の部屋に戻ってきて、シャワーを浴びて、
テレビを見ながら買ってきたものを食べる。
君はまだ彼女の中にいることに気付く。
彼女の側にいる、ではない。彼女が君の中にいる、でもない。
君は改めて彼女のことを考える。


君が彼女について知っている、一つか二つの物事。
君は君がどこにもいないということを知る、知っている。
だけどそこには君の生活があって、君が住んでいるはずの世界が、そこにある。
それが何なのかは分からない。いくら考えても答えが出ない。
君の人生は、そのようなものだった。


君は眠ろうとする。だけど眠ることができない。
彼女の眠り、君の眠り。
夢を見る。そこに彼女は出てこない。
君がいるわけでもない。
誰もいない、そんな夢を見る。


そしてまた目覚める。彼女の中にいるということは何も変わらない。
何の変化もない。そしてまたいつも通りの一日が始まる。
彼女という存在、君という存在。
忘れてしまおうとする、全て忘れてしまおうとする。
だけど、何一つとして忘れることができない。


会社に出掛ける。電話が掛かってきて電話に出る。君は誰かと話す。
話し終えて、メモを片付けて、君は誰と何を話していたのか1時間後には思い出せない。
同僚と外に食べに行く。とりとめのない話をする。なぜかその内容は覚えている。
帰りの地下鉄の中で向かいに座った女性のことが気になる。
彼女のことを思い出す。そして、振り払えなくなる。


そのとき、そこに彼女はいた。
何もない空間に君と彼女がいた。
それが、永遠になる。
もう一つの世界では、そういう時間が今も流れている。
だけど今、ここにはいない。


地下鉄が駅で停車して、目の前の女性もいなくなった。
君は一人取り残されたように思う。
何に?うまくは言えない。強いて言うならば、あらゆる物事に。
だけどそれは君だけじゃなくて、誰もがそうなのだということを君は知っている。
君は君の駅で下りる。改札を出て、いつもの道を歩く。