「アブラハム渓谷」

マノエル・デ・オリヴェイラポルトガルポルト出身。
1908年12月生まれであるため、今、100歳の現役最高齢の監督。
90年代から00年代にかけて、ほぼ毎年のように作品を発表している。
僕は昨年ようやく出会って、2002年、94歳のときの「家宝」に多大な感銘を受けた。
枯れるどころか、その静謐な瑞々しさ。
奥行きのある画面、役者たちの織り成す佇まいの深み。
その後ずっと、代表作とされる1993年、85歳の「アブラハム渓谷」を見てみたいと思いつつ、
DVDは廃盤、もちろんレンタルではどこかに置いてあるんだろうけど、
絶対手元に持つべき、そう信じてずっと探し続けた。
90年代前半の「アブラハム渓谷」「階段通りの人々」「世界の始まりへの旅」
この3作を収めたボックスセットがかつて発売されたことがあって、
amazonでは一時期10万近い値段がついていた。
こりゃ手が出せない、どこかで安く売られていないかと引き続き探し続けていたら
先日 amazon で29,800円で売られているのを見つけて、こりゃ破格の安さだと即買い。
ま、オリジナルの値段からしたら倍近いんですけど。


ということでこの土日月と1本ずつ鑑賞した。
「世界の始まりへの旅」→「階段通りの人々」→「アブラハム渓谷」の順。


「世界の始まりへの旅」と「階段通りの人々」はどちらも単純ながら、
オリヴェイラ監督ならではの滋養に満ちていた。
練られた脚本と撮るべき風景、優れた役者のアンサンブルがあったら、
後は据え置きのカメラでどこまでも簡単に、素直に撮ればいい。
その潔さに敬服する。何一つ無駄がない。
この境地、ちょっとやそっとでは到達できないだろう。
余計な邪念というものが一切ない。しかし監督の意思、意識は画面の全てに漲っている。
映画というより、舞台やドキュメンタリーを見ているのに近い。


そして、「アブラハム渓谷」
ボヴァリー夫人の翻案ってことになっていて、主人公の名前はエマなんだけど、
残念ながら学生時代に読んだきり、どんな話なのかすっかり忘れてしまった。
主人公は大人しい旦那を家に置いて、
一人の成熟した女として、欲望の赴くが如く生きていく。
孤独なまま愛というものを知ることはなく、倦んで爛れた官能に身を任せて。
このエマが少女から大人になって、子供たちが大きくなって、
一人の女が熟して腐っていくその直前、という恐らく20年ほどを描く3時間。
上流階級をしたたかに生きるファム・ファタールの物語、と一言で言ってしまえば、
「家宝」と一緒。でも、どちらも甲乙つけがたい。


多くは語らない。というかほとんど何も語っていない。
大事なことは全て省略されている。ほのめかすだけ。
物事を推し進めるようなセリフは一切出てこない。
ただ、何かを語っている。そこは常に静けさに満ちている。
なのに、大きな流れの中で物語が激流のように進んでいることがシンシンと伝わってくる。
1つの大きな物語の中で、切り取って映像として提示するものと、暗示するだけのものと。
そして映像として提示することになった場面の中で、語られた言葉と語られなかった言葉と。
入れ子の状態になっている。この空間の組み立てが神がかり的に上手い。
どうしたらこんな作品を導き出せるのだろう?
構図と、視線と(そこにあって見つめられるものと)、様々な装飾品、
生々しさを一切消された息遣いと、登場人物たちの距離、間合い。
それらで多くの物事を語ってしまう、語らずに予感させてしまう。
直接語ることなくして、いかに広がりと深み、そして余韻を感じさせるか。
芸術ってそういうことなんだな、と思う。


文章を書くのであれ、絵を描くのであれ、楽器を演奏するのであれ、
何事であろうと芸術とか表現ってものは構造と力学なのだと僕は最近考える。
枠組みと、その中を流れるもの。
どちらかだけってことはなくて、分かちがたく存在している。
芸術を志して道半ばならば、自らの型を掬い取るのはとても難しい。
しかし優れた表現ならば、必ずそこに見て取れるはずだ。
オリヴェイラ監督のそれは、
ポルトガルの風景を映し出すシンプルな構図という簡素な枠組みの中を、
人智を超えた何かによって優しく翻弄される人々という
ゆったりとした清らかな流れとなって表れる。僕はそう思う。


揺るぎないようでいて、移ろいゆくものであって。
絶えず新しく生まれ変わっていく。
僕なんかが言うまでもなく、素晴らしい表現とはそのようなものだ。