うたかたの日々

ある日突然、「球体」が見えるようになった。
「それ」は至るところに浮かんでいる。
赤に青に黄色、色とりどりの、様々な大きさの。
模様が描かれていることはなく、形が歪になることもなく。
完全なる球体。


屋外だろうと、屋内だろうと。
地下鉄の中、テレビで中継されている風景の中。
恐らく、空間さえあれば、人の体内にもそれは浮かんでいるのではないか。


それらは(いや、そいつらは?)動くことがない。
何日も何ヶ月もそこにじっと浮かんでいる。
風船のようにフワフワと揺れたりはしない。
時々入れ替わりがあるようで、消えたり生まれたりしている。
瞬間的に発生して消滅するものもあれば、
僕の知る限りもう何年も同じ場所にいるものもある。
会社の行き帰りにいつも出会うものについては、僕はこっそり名前をつけている。
だけど恥ずかしいから、何と呼んでいるのかは言えない。
もちろん、そいつらに話しかけたりはしない。
ただ、名前をつけていると言うだけ。


誰にもそのことは言わないでいた。
最初見たときは、会社の近くを商談の帰りに同僚と歩いているときだった。
「なに、あれ?」と僕は指差す。真っ赤な、直径1mぐらいの球体が浮かんでいた。
最初は風船だと思った。
「なにってなに?」
同僚にはそれは見えないようだった。
「いや、あそこにも」僕は指差す。黄色の巨大なのがビルの陰に見え隠れしていた。
「あれだよあれ」
「どれ?」
「あの、黄色のやつ」
疲れてるんじゃないの、と言われた。振り向くと緑色の小さいのが目の前に。
僕は、ハッと気付く。そして、目をこするフリをして、「そうかも」とだけ答えた。
同僚が怪訝な顔をして立っていて、僕はその日、そのまま早く帰ることにした。


改札をくぐる。その頃には至るところに見えるようになっていた。
階段を上がってホームに立つと、線路の上を白くて大きいのが静止している。
危ない、と思った瞬間、京浜東北線の快速がその中をスーッと通過していった。
「あっ」と僕は叫んでいた。周りにいた人たちが振り向いて僕を見た。
僕はうずくまった。駅員が駆け寄ってきて、大丈夫ですか?と声を掛けてきた。
「横になりますか?」
「いや、いいです。大丈夫です」
そう言って僕はホームの反対端まで歩いていって、
ちょうど来た山手線に乗って、丸の内線に乗り継いで、アパートまで帰った。


あれから何年?
もうすっかり慣れてしまった。諦めた。
始まったときと同様に、突然、見えなくなるということもなかった。
薄気味悪い思いをしながら最初のうちは恐る恐る暮らして、
球体が浮かんでいるという以外に何がどうというわけでもないと分かると、
どうでもよくなった。


東京の上空に水色のとてつもなく大きな球体が浮かんでいる。
そのはるか上に、もっと巨大なピンク色のが浮かんでいる。


諦めたつもりでいて、時々は情報を探し求めた。
google で検索しても取り立てて有意義な情報に出会うことはなかった。
僕以外に見えることはないのだろう。
この世界で僕だけ、たった1人。


…それがあるとき、他にも見える人がいるということを知った。
たまたま見つけた。女の人だった。
ブログに、助けを求めるように、わざとぼかして書いていた。
でも僕には、何のことか分かった。
ブログにコメントを書くことから始まって、メールのやり取りをするようになった。
「池袋の駅の西武のあるほうの出口を出てすぐに、オレンジ色のが浮かんでますよね」
「そうですか?池袋って普段行かないんでよく分からないです。すみません」
彼女は最近になって見え始めたようで、辛そうにしていた。
「大丈夫、日々の暮らしに何の影響もないから」と僕はメールに書く。
「でも、…でも」と彼女は繰り返す。
その後の何回目かのやり取りで、「そうですね、池袋、浮かんでました」と返って来た。
僕は彼女に、「今度会ってみませんか」とメールを送って、
彼女からも「いいですよ」と返事が来る。
その週末に新宿で待ち合わせた。


夏だった。僕は背格好はこんなで、その日はこういう色のTシャツを着ます。
目印にこういうカバンを持ってます、と伝えて、待ち合わせの場所に立った。
西口の交番の前。地下街。
そこにはマーブルチョコのように色とりどりの球体が浮かんでいた。
「遅れてごめんなさい」声がして振り向くと、彼女が立っていた。
「あの、××さんですよね?」
「ああ、○○さん?」
「そうです。どうもはじめまして」
「こちらこそ、はじめまして」
今日は暑いですね、そんなことを言い合いながら、
なんとはなしに都庁の方に向かっていって、展望台を上っていった。
エレベーターが上昇していく。
彼女は、きれいな人だった。


展望台に出て、ぐるっと回って、一番人気のない方面を探す。
奥多摩地方のガラスの前に立つ。
見渡す限り白っぽい建物が数限りなく広がっていて、
その上を無数の球体が浮かんでいる。
小さすぎて見えないものがほとんど。
遠くからでもはっきり見えるぐらいに大きなものがいくつか。
何かの大会で風船が一斉に放たれて、それが瞬間的に凍りついたような。
壮大な光景。世界の終わりのようだった。僕ですら、圧倒された。
…しまったと思う。彼女は声にならない叫び声を挙げて、気を失いかけた。
よろめいて、僕が助け起こした。
「ごめんなさい」
「座る?」
近くに椅子を見つけると、彼女は腰を下ろして目を閉じた。
僕はその横に座った。
彼女は目を閉じたまま、「慣れ始めたつもりだったのに」
「ごめん。もっと考えればよかった」
彼女はゆっくりと目を開けた。
「見える。いるね」そっと指差す。その先に、白いのが浮かんでいた。天井の奥。
「白い?」
「白い」
「1mぐらい?」
「そう」


そのとき、彼女は僕と、同じものを見ていた。
何かを共有していた。
だけどそのことにどんな意味があるのか、分からなかった。
意味なんてないのだと、そのときは思った。
この世の中にあるたくさんのものと一緒。
球体だから特別、そんなことはない。
僕はそう思っていた。


そこに何があるのか?
最初に気付いたのは彼女の方だった。
立ち上がって、次々に窓の外を指差して僕は色と大きさを答えていった。
彼女が初めて笑った。心の底から、笑っていた。
人は普通に生きていて、誰かと何かを、
秘密と言っていいような何かを、共有することなんてあまりない。
僕にも彼女にも、それが何なのかは分からないまま。
だけどそんなことは、どうでもよかった。


エレベーターを下りて行って、地上に出た。
彼女は「ありがとう」と言った。
「生きて、いけそう」


その後は喫茶店に入って、世間話をした。
「球体」の話はしなかった。
どんな仕事をしてるんですか、とか、趣味は何ですか、とか。
当たり障りのないことを。
何かが気まずくて、ぎこちない会話になった。


その後何回かメールのやり取りをして、自然と距離が遠くなっていった。
彼女は彼女の生活に、それまでの生活に、戻っていったのだろう。


時々彼女からメールが届いて、「まだ見えてますか?」と尋ねてきた。
「相変わらず見えてます」と僕は答えた。
「結婚しました」とか「子供が生まれました」とかそういうのが続いて、
球体のことには触れなくなって、いつからかメールが来なくなった。


そう、僕が今、あなたに語りたかったのはただそれだけ。
僕には今も、「それ」が見えている。
いくつもいくつも、無数に浮かんでいる。
僕は日々暮らしながら球体が奏でる、音にならない音に耳を傾ける。
完全なる静けさを思い浮かべて、目の前の白いそれを眺める。


見上げると今、この瞬間も、
巨大な球体が東京の上空に浮かんでいる。