小説と物語

以下、編集学校の教室で書いたことを加筆・修正したものです。
とはいえ、あくまで、メモレベル。
この辺りの考えを深めるために、僕は今後も編集学校で学ぶのだと思う。

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小説と物語の違い。
刹那的な、その時々の一瞬の価値観に燃え尽きるか、
より大きなものの一部となって還元されるか。
キーワードは「売れる」と「語り継ぐ」です。
そもそも、違うんです。


物語とは、大局的には、人が人として生きる大いなる営み、
その長い長い歴史に意味を与える行為ではないか?
だけど僕にもまだまだ分からないことばかり。
(クロニクルという縦軸があって、横軸は?…まだ分からず)


定型化して、固まって、でもまた崩されて、
という大いなる潮の満ち引きがそこにはあります。


小説はその時々で切り取って商品化する過程に過ぎません。


大いなるものの中に飛び込み、その流れに身を任せること。
流れの中で、自らもまた物語となること。
物語というものは、とてつもなく大きい。
猿から進化して頭でっかちになってきた人類を導き、
動かしてきたエンジンかもしれない。

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物語は「語られる」ものだとしたとき、小説は「読まれる」もの、だと思います。
「書く」でも「読む」でもなく、「読まれる」
(ここで言う「読む」「読まれる」には
 ジュリア・クリステヴァ言うところの「読む」も含まれる。間テクスト性


つまり、物語と小説の差異にはいろいろあるけれども、
例えば、小説というものははっきりと書き手と読み手が分かれています。
(注 作者は書き手にもなれば、読み手にもなる)


そして、文字ありき。
文字を並べていって文章としたものの背景となる、メディアありき。
それは文庫本かもしれないし、新聞や雑誌かもしれないし、
WEBページかもしれない。


(その逆に物語とは、顕在的なものであれ、潜在的なものであれ、
 言葉ないしはイメージとしてなんらか共有さえ果たされば、
 1人の中で閉じていても、1:1で向かい合って議論されても、
 集団の中で詠唱として聞いても、もちろん本や図鑑であっても、
 その手段は問われない、と思います)


ここで、書くと読むとが離れる、メディアを必要とするというのがポイントで、
一般的な読者に届くまでの間に、商品として企画され、製作され、流通され、
場合によっては広告や宣伝も受け、批評され、という過程が必要とされます。
ここに何か「よじれ」のようなものが発生するんですね。
小説って、そういうものだと思うんです。


売るということを目的としてなくて、
自分だけのために、身近な人のために書いたものだとしても、
そこには厳然と読み手が存在して、伝えなければならないものがある。
その届けるという行為が21世紀の今、ストレートにできない。


…なんかちっともうまく言えなくてもどかしいです。


物語がやはり「共有する」ものだとしたら、
小説とは「伝える」「届ける」ものなんじゃないか。
作者と読者との間の隘路を通るもの。


そしてそれが、
作者の側からしたら未知の不特定多数に対してなされるならば、
受け取る側にはそれを読む時間を費やすだけの魅力がなければならない。
消費社会においてそれは、端的に言って商品としての価値、
売れるかどうかという一言になってしまう。


図式的に言えば、


<物語:循環的>
 Aさん−(共有)−Bさん−(記録)−語り部的立場のCさん


<小説:一方通行的>
 書き手のAさん−(魅力)→読み手のBさん