感門之盟 その3

そして、離の退院式。
これがまた、こゆいんですね。
そもそもがお題の数はどう少なく見積もっても150で、300ぐらいにはなるということで。
校長からの「この本を読みなさい」という指示を含めると1000近く。
途方にくれる。
校長自ら書いたテキスト「文巻」に基づく、
始まった瞬間からノンストップの知と情報のシャワー。
春の嵐」に例えられていた。


退院(卒業)した27名全員が2回に分かれて全員ステージに上がって、
1人1人に松岡校長が卒業証書(何と呼んでいたか、思い出せず)を手渡す。
これがただ渡すのではなくて、「離論」(卒業論文)の核となる部分の抜粋を読み上げる。
ものすごくざっくり言えば、この世界の見方がどのように変わったか、といったようなこと。
どれも、内容が深い。
しかも、同じ内容のカリキュラムを受けているはずなのに、
1人1人が見出して発した言葉が全然違うんですね。
それぞれが人間というものの中をとことん掘り下げるからなんだろうな。
すげーと思う。
行きたくなる。行きたいという気持ちが、強まる。
知の何たるかを知るには、やはりここしかないのではないか?
来年の今頃、果たして僕はやり遂げているだろうか…
6年目の、「六離」


守の「番ボー」や破の「AT賞」のようなコンテストはないけど、
稽古への取り組み方の素晴らしかった学衆に送られる「別当賞」や
最優秀者に送られる「典離」の発表があった。
「典離」となると、それぞれに校長の書が送られる。スピーチも行う。
とある方が、そこに描かれていた「而」という文字に
接続詞という存在の不思議さ、間を生める柔らかさを語っていたのが印象に残った。


離のカリキュラムはこれまでその多くが秘密とされていたけど、
今回いくつか漏れ出てくるものがあった。
どうも自画像を描かされるらしい、とかね。


女性の学匠(そのコースの最高責任者)の左肩には、鳳凰の刺青。
びびった。


短い休憩時間を挟んで、メインイベントとして、校長講和。
1時間押していたってことで短めみたいだったけど、
例によって変化自在、話がどこまでも転がっていって落ちるべきところに落ちる。
冷静になって聞いていれば脈略ないのに、スムーズにつながっていく。
整合性ならぬ正剛性。
話は今回の感門之盟のタイトルともなったダブルページから始まる。
両面性、両頁性、両結性。
松岡正剛は若い頃、(西洋的な)二分法や一元主義と戦ってきたという。
例えば、ニーチェの超人思想。
同時代であれば、ワーグナーの庇護者ルートヴィヒ2世の孤独な狂気。ただ1人、狂っていく。
若い頃には、このような存在には熱病のように憧れてしまうもの。
しかし、あるとき一休さんに出会う。とんちの、ではなく、風狂の人としての一休さん
彼は仲間たちと共に狂う、遊ぶ。
東洋的な両頁性に出会う。そこには主客の逆転が発生しえる。
…こういったところから始まって、
今の、という当時の日本には何が必要だったかという危機感が片方にあって、
その一方でインターネットの発達というものがあって。
ISIS編集学校が生まれるまでの歴史につながっていく。
そして、「書物にこだわる」という一点に絞り込んだ今後の方向性の意味が語られる。
メディアの交換、パッサージュとしての書物。
「暗い玩具」というキーワードが出てきた。世界の断片、アーカイヴ、ウィルスとしての…


締めとして、忌野清志郎がソロで歌う
RCサクセションの名曲「まぼろし」のライブ映像が流れた。
たぶん、これ。
http://www.youtube.com/watch?v=gpJy7_YjMMY
ギターの弾き語り。ハーモニカを吹く。
1人きりの、晩年の清志郎、かっこいい。
言葉にならない。言葉を必要としない。
その存在と、発せられる歌がそこにあるだけ。


最後に、4人3組のゲストのスピーチ。
1人は「業」を進めて来たみずほ銀行の方(19守・破を受けたという)、
今回史上最年少で突破(卒業)した2人、
1人は中学2年生の男の子で、もう1人は高校1年生の女の子だった。
最後にもう1人、第1期生の方。
この方の発声で三本締め、集合写真。


13時に始まって、終わったのは20時近く。
長かった…