とりとめないこと

去年から神保町の客先に常駐している。
荻窪から丸の内線で新宿三丁目駅まで行って、都営新宿線に乗り換えて神保町、というルート。
丸の内線は始発なので必ず座って来れる。本を読んで、読み疲れると目を閉じる。
例え1つか2つの駅の間であろうとも、眠ろうとする。


新宿三丁目から乗るときは混雑している。座れることはまずない。
片方の手で吊革なり手すりを掴んで、もう片方の手で鞄を持っているので、本を読むことができない。
吊革を握らずに本を片手に読んでてもいいんだけど、
ブレーキのかかったときに僕は必ずよろけるので、みっともないなとやめにしてる。


周りの人とギュウギュウ詰めになりながら、吊り広告を眺めるか、考え事をする。
そんなときは、いつのまにかとりとめのないことを考えている。
そのまま無に行きつくこともある。
「とりとめのないことを考える時間」ってのはとても大事だと最近思う。
人は、1日に1回そういう時間が必要なのではないか。
知的情報の input がなく、output もない。
皮膚感覚の刺激だけを受ける。
そういう状況下において、頭の中を、頭の中に、解放する。循環させる。


僕は通勤のときは基本的に、同じ時間の同じ車両の、可能ならば同じ座席に座ろうとする。
日によって変えるということはなく、極力習慣化しようとする。
丸の内線だと4両目。特に理由はない。
10数年前の新入社員当時は6両目の一番端だった。
それがある日隣のドアになり、5両目になり・・・
何年か前に4両目の端に移って、そこから先変わっていない。
それがどうしてそうなのか、自分でも分からない。
偶然が重なり合ってこの場所になって、なぜかそれがしっくりきた。
ただそれだけのことだと思う。


新宿三丁目で乗り換えるときも、最近いつも同じ時間の同じ車両の同じドア。
7月の前半、とある女子高生と一緒になることが多かった。
ちょっと気になる。僕のことに気付いているのだろうか?
僕が最初にホームのその場所に着いて、女子高生が後から来る。
30過ぎの男性が目の前にいつも立っている。嫌だったりしないのだろうか?
・・・いや、気が付いていないのだろう。気が付いていても、何とも思わない。
地下鉄が来て、乗り込む。僕が先となるので、女子高生は僕の背後に立つ。
僕は取りとめのないことを考える。
時々ふっと我に返って、女子高生のことを考える。
満員電車の中で体の向きを変えるふりをして、ちらっと見る。
だいたいは、ドアの向こうの真っ暗闇をなんとはなしに見つめている。
彼女は僕の1つ手前の九段下で降りていく。
その位置は階段や改札に近いわけではない。
彼女には彼女なりの理由があって、その位置に落ち着いて定着したというだけなのだろう。
新宿三丁目のホームの、隣のドアのところにはいつも40代ぐらいの女性が立っている。
新宿三丁目の駅の改札の前辺りで、毎日のようにすれ違う女性もいる。


神保町で降りて、オフィスへと向かう。
とりとめなく思い浮かんでいたことは、そのほとんどを忘れてしまう。
女子高生のことを考える。
言葉にならない言葉で、ただ、その存在のことを。


そして、今。
高校が夏休みになったせいか、女子高生と会うことはなくなった。
ぼくは前のように一人で、都営新宿線に乗る。