「1Q84」 たぶんその4

スペインに行ってる間に、文春文庫から出ている
村上春樹の「意味がなければスイングはない」を読んでいた。
ブルース・スプリングスティーンレイモンド・カーヴァーについて書いている章にて、
なかなか興味深い記述があった。


(一見全然接点がなさそうであるが、趣旨としては、
 2人ともブルーカラーの人々の「リアル」を開かれた物語として描いた、ということだった)


長くなるけど、引用します。


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 僕が初めてアメリカに行ったのは1984年の夏で、その目的のひと
つは小説家レイモンド・カーヴァーにインタビューをおこなうこと
だった。アメリカに着いて空港からタクシーに乗ったとき、まず目
についたのは、発売されたばかりのLP『ボーン・イン・ザ・USA』
の巨大な広告看板だった。その光景を今でもよく覚えている。巨大
星条旗と、色あせたブルージーンのヒップポケットに無造作につ
っこまれた赤いベースボールキャップ。そう、1984年はまさにブル
ース・スプリングスティーンのための年だった。そのアルバムは驚
異的なベストセラーになり、アメリカ中どこに行っても彼の歌が流
れていた。『ダンシング・イン・ザ・ダーク』や『ボーン・イン・
ザ・USA』。それはまたロスアンジェルス五輪の年であり、ロナル
ド・レーガンが大統領選挙に圧勝した年でもあった。失業率は二桁
を超え、労働者たちは不況のもたらす重圧にあえいでいた。経済構
造のドラスティックな転換が、一般労働者たちの生活を暗い淵に追
い込みつつあったのだ。しかし一介の旅行者の目に映るものは、明
るい見せかけの楽天主義であり、バイセンティニアル(建国二百周
年)やオリンピックがらみで派手に打ち振られる星条旗だった。


p.128-129
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1Q84」がなぜ1984年を舞台にしているのか、
手がかりとなりそうな、全然関係なさそうな。


それはともかくとして、
ジョージ・オーウェル未来社会として描いた「1984年」は
実際にはこんな年だったというのだ。
あくまで「村上春樹の描いたアメリカ」でしかないけど。
少なくともアメリカは、
小説中にて語られていた全体主義的社会の予言とは全然異なる世の中に進んでいった。
(いや、もしかしたら引用した文章の後半に描かれる状況は、
 形は違えど本質的に通ずるものがあるのかもしれない。
 何よりも、『ボーン・イン・ザ・USA』が”愛国心の歌”として誤用されるあたりが)


じゃあ結果として、1984年はどんな年だったのか?


ここで、例の『情報の歴史』を参照してみる。
http://www.amazon.co.jp/dp/4871884430/


大見出し・中見出し・小見出しを抜き出す。


□繁栄と貧困
 *アフリカ一億五千万人飢餓
 *ブルネイ ニューカレドニア独立
 *原発規制国民投票
  −指紋押捺問題 地方議は反対
  −反マルコス・デモ アキノ夫人演説
  −I・ガンジー暗殺 15年間の政権
  −FSLN勝利 サンディニスタ政権誕生


□過剰な技術
 *ハイブリッド材料へ
  −シグマ計画
  −マッキントッシュ アップル32ビット
  −坂村健TRON
 *INS実験
 *牛肉オレンジ交渉


□複雑性と多様性
 *謎のゼータ粒子
  −トップクォーク
 *リーベルマン景観生態学
  −本庶佑利根川進
 *情報ネットワーク社会論へ
  −身分け 丸山圭三郎 市川浩
 *柔らかい個人主義 新中間大衆の時代
  −イリガライ 性的差異のエチカ


□イメージ・カプセル
  −バーバラ・クルーガー
  −安藤忠雄・毛綱毅曠
  −操上和美・築地仁
 *ジャームッシュ
 *風の谷のナウシカ


□追落と快楽
 *サイバーパンク ニューロマンサー
  −方舟さくら丸
  −ワーキング・ウーマン
  −初の手話辞典
 *アフリカン・ポップ台頭
  −マドンナとスプリングスティーン


以下、本文をざっと眺めてみるのだが、ロナルド・レーガンが出てこない。
ロサンゼルス・オリンピックはソ連ボイコットのことしか書かれていない。
(ここで初めて気付いたんだけど、一般的なスポーツの記録は『情報の歴史』には載らないようだ。
 たぶん、政治的・文化的意味がない限り)


それはさておき、中を見てみると
第三世界を中心に政情は不安定、その裏でコンピューターが発展を続ける、
そして、大見出しにもあるけど何もかもが多様性に向けて突っ走っている、
そんな年だったようだ。
言うなれば、転換点の一歩手前。
1985年を見ると、中見出しは
ゴルバチョフ時代へ」「G5 ドル安・円高へ」「超ひも理論」というように転換点そのもの。


1984年って、何かありそうで過去の世代の人間たちからも期待もされてて、
実際は「何もなかった年」なのかもしれない。
だから、スプリングスティーンも解釈をでっち上げられ、祭り上げられた。
朗らかに駆け抜けるカール・ルイスがヒーローとなった。


歴史の流れは途絶えることはなく、むしろめまぐるしく移り変わっているのに、
全体としては空白。
その隙間を埋めるために
1Q84」が書かれた、1984年という年が選ばれた、のかもしれない。


一言で言うならば、引き潮の年。
村上春樹はそこに、砂浜に寄せられた様々な物体に、可能性を、物語を、見出した。
もしかしたらそれらは、潮(という名のストーリー)が満ちるときに
かき消されてしまうかもしれない。
しかし波の底でいくつかは残され、いくつかはまた別な場所へと引っ張られてゆく。
その、暗示。


2009年の今年は、ちょうど25年後。四半世紀が経過している。
50年でもなく、100年でもなく、10年でもない。
この絶妙な距離感。
そして2009年もまた半分が過ぎて、空白の年になるのではないかと僕は予感する。