「チチカット・フォーリーズ」

東京に住んで、もう15年以上となるのか。
これまでの人生でたまたまその存在を知って、
見たい!と思った映画のほとんどをこの年月の間に見ることができた。
すぐ見れたものもあれば、何年もかかったものもあった。
何度も何度もすれ違って、ようやく見れたものってのもある。
今回の「チチカット・フォーリーズ」が正にそう。
東京ではこれまで何回か特集上映が開催されてきたのに、
終わった後に気づいたたり、忙しくて見に行けなかったり。
DVDになってないんですね。たぶんビデオにもなってない。
山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映されると知っても、
わざわざそのためだけに山形まで行くのは勇気がいるし。


それが今回ユーロスペースフレデリック・ワイズマンの回顧上映がなされて、
ようやく見ることができた。
9/12(土) 場内はほぼ、満席。


フレデリック・ワイズマンアメリカのドキュメンタリー映画の巨匠、とされる。
「チチカット・フォーリーズ」は1967年の処女作。
合衆国裁判所の判断により上映禁止とされた、91年になってようやく公開された曰くつきの作品。
マスチューセッツ州ブリッジウォーターにある州立の精神病院、
というか「精神異常犯罪者のための矯正施設」での日常風景を撮影したもの。
普段は独房の中。
体を洗う側の人間がいて、洗われる側の人間がいる。
世の中に対する支離滅裂な主張を大声で繰り広げる人間がいて、
彼らの集う部屋には彼の言うことを聞く人間は一人もいない。
心というものを失ってしまったようだ。
週に一度の外に出ていい日なのか、彼らは中庭でボーっとしている。なんだか楽しそうだ。
だけどやはり、何か大事なものが失われている。そしてそれっきり、放置されているようだ。
そして何人かは死んでいく。棺が運ばれ、墓地に埋葬される。


なんで禁止かって言ったら「人権」ってことなんだろうな。
まるで囚人のように描かれる、というか囚人以外のなんでもない患者たちと、
彼らを「患者」の名のもと、自分たちの二段も三段も下に扱う「看守」たち。
慰問に現れる善良そうなおばあさんたちもなんだかこのコンテクストで見ると無知な偽善者のようで。
今のこのご時勢に撮影しようとしても絶対誰も許可しないよ、これ。みんな嫌がる。
「自分は精神病じゃない」と何度も声高に主張する男性がいて、看守たちに連れて行かれる。
医者は「偏執症の傾向あり、安定剤を大量に与えよ」と興味なさそうに片付ける。
客観的に病気を捉えるということではなく、ただ単に人として見ていない。目の前の仕事でしかない。
今の医者なら、こんな場面絶対撮影させないと思う。
この頃はまだ、牧歌的な時代だったのだなあ。
映画に撮られるということ、記録に残されるということ、
誰かがそれを見るということ、それは不特定多数の視線に晒されること、
その何たるかを、怖さを、知らなかった時代。
早い話、撮っちゃいけないものを撮ってしまった。


なんで僕がこの作品を見たかったかと言うと、
問題作だから、精神病院の内側にカメラが入ったから、というのもあったけど、
そもそも「異質なもの」「見てはいけないもの」を感じ取ったから。
タイトルの「チチカット・フォーリーズ」からして、何を表す言葉なのかよく分からない。
チチカットとは地名なのだろうか?フォーリーは人の名前?
完全に意味不明なのではなく、
英語としてなんとなく手がかりがありそうで、全然分からないところが居心地悪い。
合ってるはずのプロトコルがずれてて、コミュニケーションが成り立たないという恐怖。
それがそのまま、精神病院の中の奇矯なコミュニケーションにオーバーラップしていくのだろう。


冒頭の場面は、患者たちの学芸会のステージ。
揃いの衣装を着て、賑やかで楽しい歌を彼らは一生懸命になって歌う。
どことなく目が虚ろだったりするような気がするのは、僕がそういう色眼鏡で見ているからか。
彼らはとても楽しそうだ。振り付けに合わせてボンボンも振る。
でも、何かがどっかおかしい。
いい年した男性は揃いの衣装を着て学芸会のステージなんかには立たないものだ。
もっと大事なこととして、(そんな場面は無いけど)彼らは、歌えと言われて歌わされている。
なんだかとても薄ら寒い。
そしてこのステージのバックに、
クリスマスの飾りつけのように「Titicut Follies」と描かれているのである。
つまり、この合唱隊のことなんだろうな。
だけど、じゃあ何でこの合唱隊が「Titicut Follies」と呼ばれなきゃいけないのか?
それは結局分からないまま。僕らは無条件にそれを受け入れなければならない。
やはり、居心地が悪い。


エンドクレジットの最後、裁判所の勧告により、次の一文が挿入される。
「ブリッジウォーター州立病院の待遇は1966年以後改善された」と。
たぶん映画の撮影された後のことなのだろう。
そうは言っても、結局何も変わらないんだろ?
ブリッジウォーターだろうと、どこだろうと。
そんな声が聞こえてきそう。


白黒の粗い画面。カメラの回る音が聞こえる。
ナレーションや字幕は一切無し。
ただただ、光景だけが続いていく。そっけない。ストーリー性も無い。
フレデリック・ワイズマンの訴えたかったことは、患者たちの受けるひどい処遇のことなのか?
それともその奥に潜んでいるもっと根源的で普遍的なものなのか?
1回見ただけじゃ分からない。
でも、僕としてはこれ、ドキュメンタリー映画として非常に秀逸であるように思う。
タイトル通りの異質さ、この世の中がいかに歪んだものなのか、それをしっかりと受け取ったのだから。

    • -

ユーロスペースではこの秋、カネフスキーの特集上映ってことで
「動くな、死ね、甦れ!」「ひとりで生きる」「ぼくら、20世紀の子供たち」の3本が
リバイバルで公開される。
これは是非見に行かなくては。

    • -

【追記】


と思っていたところ、映画部の後輩から指摘が。
http://kanazawa-comcine.to.cx/event/event05/gokui03/sheet02.html


第7回金沢コミュニティシネマ上映会での、蓮實重彦氏の講演。
気になる人は読んでみてください。


僕が思っていたよりも、全然牧歌的ではなかったようだ。