「ライアン・ラーキン 路上に咲いたアニメーション」

引き続き、「ライアン・ラーキン 路上に咲いたアニメーション」について。
ライズXで鑑賞。


ライアン・アーキン。
絵の巧さから幼少より神童と呼ばれ、若くして名門「NFB」(カナダ国立映画制作庁)へ。
1969年の「ウォーキング」で弱冠25歳にてアカデミー短編アニメ賞にノミネート、一躍時代の寵児となる。
続く1972年の「ストリート・ミュージック」もまた世界的な評価を得るものの、
その後プレッシャーに負け、ドラッグやアルコールに溺れ、
不遇をかこつうちにホームレスとなり、街行く人に小銭をせびる毎日を過ごす。
「再発見」され、実に30年以上を経て新作「スペア・チェンジ 小銭を」の製作を開始するも、2007年死去。
1960年代半ばの習作2本を入れても、全盛期にはたった4本しか作っていない。
しかもどれも10分以下。
そんな、「伝説」の人。


僕は知らなかった。
前の日、渋谷でなんか映画見るかと探していたら目に留まって、興味を持った。
(「不遇」とか「伝説」ってのにどうしても弱い)


一通り見てたった44分という短さ。
最初はクリス・ランドレスという数世代下のアニメ作家が
ライアン・ラーキンとの対話を元に制作したアニメ「ライアン」からスタート。
これは2004年のアカデミー短編アニメーション賞を獲得したそうで、
ライアン・ラーキンよりもクリス・ランドレスの作家性を前面に押し出した、よくできた3Dアニメ。
続けて、「Alter Egos」という、この「ライアン」制作にまつわるドキュメンタリー映画のうち、
ライアン・ラーキンへのインタビューの抜粋。
その後、ライアン・ラーキンの作品5本。
「シランクス」「シティスケープ」「ウォーキング」「ストリート・ミュージック」
「スペア・チェンジ 小銭を」


「シランクス」「シティスケープ」は上に書いた習作に当たるもの。
それぞれ、3分と1分という短さ。
とはいえ、見る見る間に変容していくアニメーション映像の緻密さ、独自の世界観に
いきなり唸らされてしまう。
確かにこれは天才だ。
この2作、作品の内容ではなく作品そのものに感動した。


そして「ウォーキング」と「ストリート・ミュージック」
天才の本領発揮。
自由奔放な想像力と、身体の動きを観察する力。
それをアニメーションとして1枚1枚手書きする力。


「ウォーキング」はただ単に、音楽に合わせて人々が歩いているだけの5分間。
だけどどの瞬間を切り取っても生き生きとしていて、実写よりもリアル。
楽しげに跳んだり跳ねたりってことも含めて、
歩くということのなんたるかが正確に無駄なく表現されている。
そして、これが一番大事なことなんだけど、見てて楽しい気持ちになる。
魔法のような5分間。
最初のうちは精緻な線で人間を描いていたけど、後々どんどん線が簡素化していって、
抽象的な「形」だけになってしまうんですね。
なのにこれが歩くという行為のエッセンスをピタッと捕まえていて、
ウォーキング以外の何者でもないという。
こんな言い方をしてあっさり片付けたくないけど、いやー天才だ。


「ストリート・ミュージック」はその発展系なんだけど。
単純な線的進化ではなく、全方位的な進化。
ストリート・ミュージシャンが演奏している実写の風景から始まって、
そのミュージシャンたちが単純な線描のアニメになって、
音に合わせてめまぐるしく、クルクルとメタモルフォーズ(変容)し続ける。
人が楽器になり、動物になり、空間となり、・・・
曲が変わって、極彩色の桃源郷の風景が描かれる。
移り変わる色彩の美しさに思わず見とれる。
言葉では何も語られないのに、そこにはたくさんの思いが込められている。
あるいは、言葉によっては語りえない何か。
そしてまた、最後の曲でストリート・ミュージシャンに戻っていく。
こんなの初めて見た。
「ストリート・ミュージック」から先、作品を作れなかったのも頷ける。
これから先、どんな進化を遂げるべきなのか想像もできない。
というか、ありえなかった。


「スペア・チェンジ 小銭を」は未完のままだったものを
若手のアニメ作家たちが引き継いで完成させたため、とりとめがなく、
「ウォーキング」や「ストリート・ミュージック」のような感動はない。
エピローグみたいなものかな。


いや、思いがけずすごいものを見てしまった。
DVD化してほしいな。