「物語と小説の違い」その後

編集学校の応用コースである「物語講座」を受講して早1ヶ月。
例によってアレコレ「物語と小説の違い」を考え続けていたわけですが。
最近思うに、この2つ、並べて語るようなものではないんじゃないかと。
図式的に対比できるものではなさそう。全然、違う。
(まだうまくは言えないけど、あるものを「カレーライス」と呼んでみたり、
 「食べ物」と呼んでみたりということなのかもしれない)


物語とは何なのか、さらにその途方もない大きさを感じつつある。


その一方で、物語って
登場人物間、あるいは登場人物と状況間の相互作用・異化作用に過ぎないんじゃないか?
というふうにも思いつつある。
そのプロセスによって、語られるもの。
何も起きなければ物語とは言えない。
AさんとBさんが何の理解や行動にも結びつかない、
天候に関する会話をひたすら交わしているだけならば
どれだけ日本語として美しくても物語にはならない。
(小説にはなるかもしれないが)


サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」のように
何も起こらないということをウリにしている物語もあるが、
あれは「言葉」巧みに「語る」ことによって
「何も起こらない」ということそのものを引き起こしているわけだ。


そう、登場人物と状況という作品内部と、
作品とそれを構成している言葉というもの間、ないしは
作者と読者と作品との間という作品外部との相互作用・異化作用に話が進んだとき、
ミハイル・バフチン言語哲学へと向かっていく。
この辺りから物語そのものが異化されて、
言葉によって綴られたそれは「ポストモダニズム的言説」とでも呼ぶべきものに近くなる。
物語よりも小説の方が親和性が高くなる。


なお、物語はストーリーとイコールではない。
ストーリーは物語を形作る構成要素でしかない。
ストーリーの中で起こることと、ストーリーを通して起こるべきこと、
というのは似て非なるものだ。
そして大事なのはやはり、受動的な前者ではなく、能動的な後者なのである。


ストーリーが向かう方向性と、その瞬間における文脈・コンテクスト。
どのような磁場がそこでは発生しているのか?
登場人物たちにどのような作用を起こす、どのような力が流れている?
そう、この「力」とでも呼ぶべきものと「場」とでも呼ぶべきものが
何よりも、物語の本質なのだと僕は考える。
構造と力学。どちらが欠けても物語は成立しない。


流れてゆくもの。
そこで辿り着く場所。出会う出来事。
僕は、一人ではない。