物語講座「蒐譚場」

昨日は赤坂の編集工学研究所にて、物語講座第二綴のリアル稽古である「蒐譚場」に参加。
初級コース:守、中級コース:破では「汁講」という名のオフ会があって、
それは、いつものWEB上で完結したやり取りを離れて
実際い顔合わせして飲みましょうって意味合いの会合だけど、
今回のは実際に稽古、というかワークショップ。1日がかり。
物語講座としては今回が2期目(2年目)だけど、昨年はこういう場がなくて今年から始まった。
なので当日のスケジュールというかカリキュラムも試行錯誤となる。


詳しい内容は書くわけにはいかないんだけど、自己紹介があって、
講座内で過ごす4ヶ月間が大きく3つに区切られているうちの、
最初と真ん中(今やっている)についてグループ(教室)ごとにワークショップ。
とある映画監督の作品を鑑賞して「方法」を探る、そして特別講義。
もちろん、松岡正剛校長によるもの。


何が驚くって、あれこれと仕事を抱えて忙しいはずの校長が
ところどころ席をはずしつつも1日中いるんですよね。
で、時々解説やコメントを入れる。
この物語講座には気合を入れてんだなあというのが伺えた。


この日1日あれこれ見聞きして、
物語とは何なのか、というかどういう位置づけなのか、ようやく分かってきた。
もしかして編集学校的には
「情報」と同じぐらいの位置づけのキーワードに「物語」がなるかも、
というかなってるのかも。
少なくとも、最先端の現場であるここ物語講座ではそういう雰囲気が伺えた。
物語とは情報というものをある一面から眺めたときの様相、とても重要な様相なのではないか?


「我々は物語を物語る物語である」というフェルナンド・ペソアの引用から始まって、
松岡校長の特別講義ではこんなことを言っていた。


 ・情報とされたものの中に物語化されたものが潜んでいる。情報はその初
  期において、物語としてしか語られなかった。物語にしか、情報化は起
  きなかった。


 ・「個人が言語を話しているのではなく、言語が個人を話しているのであ
   る」(ロラン・バルト
  同じように、言語が物語を形作っているのではなく、物語が言語を形作
  っているのである。


ふー。そうなのか。そうなのである。


じゃあその様相とは何なのか?
これは冒頭でとある師範の方が引き合いに出していた、
ウォルター・ベンヤミンの「物語とは体験の交換である」ここに尽きる。


このところ僕が考えていた、物語と小説の違いも現時点での答えが見えてきた。
物語として「語られるべきこと」がそこにあって、
それがその時々のメディアに応じた形でアウトプットされる。
そのうちの1つが小説なのである。
その変換エンジンのことを文学と呼ぶ。
そういうこと。

    • -

話変わって。自己紹介のときに青森出身ですと言ってたら、
他にも青森出身の方がいて後で話しかけられた。
五所川原の「エルムの街」の話になった。
いまや、エルムの街には温泉まであるのだという。
娯楽施設まで完備されて、こりゃもう完璧だ。
近隣の人はエルムの街さえあればほとんど用が足りてしまうのではないか。
インターネットがあれば、他にも欲しいものは買える。
そのことの是非について考える。地方都市のあり方。大都市との距離感の保ち方。


津軽」というムックが面白いと教えてもらう。
岩木山はどの角度から見るのがいいのか、など。
青森でしか売ってないらしい。
年末年始帰省した時に買おうと思う。