物語講座からのレポート(何回目だっけ?)

編集学校のコースが始まってしまうと、編集学校のことばかり書いてしまいますが。
「物語講座 第二綴」も今が正に最高に盛り上がってるところで。
気が付いたらものすごく大変なことになっている。
ある日突然、残り1ヶ月で卒論を書かなきゃいけなくなったかのよう。
レポートじゃなくて、あくまで卒論。いや、もしかしたら修論
とりあえず1ヶ月かけて本を何冊か読んで、書いて出せばいいというものではなく、
指導教官とのやりとりは日夜みっちりと続いて、しかも合格点に達する必要があるという・・・


11月末から突然、そのモード。
図書館行ったり、会社の行き帰りも参考になりそうな本を読んで、昼休みに大事なところをメモとって。
家にいて自由に使える時間はほぼ、今回の課題の作業で消える。
というか他の事に使う気になれない。ここまで追い詰められるとは。
それでも、最上級コース「離」に行ったらこの比じゃないんだろうな。
時間との戦い。これまでに何人かの先輩から
「時間を編集する」ことについて聞かされてきたけど、こういうことか。
いい予行演習になった・・・

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先月の3連休の間に開催されたリアル稽古「蒐譚場」の後で、考えたこと。


編集学校はこれから先、
「情報」だけじゃなくて、「本」と「物語」の三位一体で進んで行くんだろうな。
「本」については松丸本舗のオープンってのが象徴的な出来事で、分かりやすい。
編集という概念を「本」「本屋」「本棚」という目に見える形でショーケース化する。
メディアとしての本に可能性を見出す。立ち返る。
それは記憶装置であり、コミュニケーション・ツールであり、
一つの芸術作品であり、それ以前にまず商品であり、時として贈り物であり・・・
一冊の本の中にも様々なレイヤーの意味や役割が込められている。
本というものはまだまだ開いていくことができる。
それは決して、終わらない。最後のページを閉じたとしても。


そして、物語。
リアル稽古に出てわかったんだけど、
物語講座は物語というものを極めた師範が教えている、というわけじゃないんですね。
むしろ、物語とはどういうものなのか極めたいと思っていて
今、編集学校の中でその最前線にいる人たち。
そういう人たちから教えを乞う。
だからカリキュラムとしての「型」としてはある程度形を成すことは可能だとしても
そこで何が生まれるのかは未知数ってわけで。
実はかなりスリリングなことなんじゃないか?
(それがそもそも物語の物語な由縁なところですが)
今はまだ誰も完全に捉えきれていないけど、
何かものすごく大きなものを編集学校は仕留めようとしているように思う。
もっと具体的なアウトプットがあと2・3年のうちに出てくるのではないか?
講座として2年目、その最初の段階で
一緒に試行錯誤できるというのは貴重な体験であるように思う。


未分化の物語が情報化されて、例えば今、本という形になる。
いや、未分化の情報が物語化されて、本という形になる。

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物語って言葉を言葉足らしめるエンジンなんだろうな。きっと。
紙の上に印刷された文字が、紙の上に印刷された文字以上のものになって受容される、
その受容されるべきものと、受容させるための力と。
それら不可分となって、印刷された文字の間の余白を流れていくもの。
そしてそれは意味論の狭い枠組に押し込められることはなく、
絶えずあらゆるものから零れ落ちていく。