「めぐりあう時間たち」

引き続き、『めぐりあう時間たち


公開当時に劇場で見て、今回DVDを入手して2回目。
うーむ。やはりこれは傑作だ。よくできている。


ヴァージニア・ウルフの人となりを映像でイメージ固めしたいと思って見たんだけど、
これでアカデミー主演女優賞を獲得したニコール・キッドマンのなりきりっぷりがすごい。
気難しい天才肌の小説家、その複雑な内面、
――この世界に対する永遠に拭えない違和感と、そこから生まれる癒やし難い孤独――
を一身に体現していたように思う。
ニコール・キッドマンがそもそもどんな顔をしていたのか思い出せないくらいだ。


1923年。
今見ると、ヴァージニア・ウルフの姉ヴァネッサ・ベルも、
その娘アンジェリカ、息子ジュリアン、クェンティンも登場人物として出てくる。
ヴァネッサはけたたましく薄っぺらい人物として描かれているが、
実際はもっとしっかり・しっとりとした女性だろう。
夫レナード・ウルフはああいう感じだよなー。どことなく影が薄くて、寡黙な。


それはさておき、物語として面白いのは
エイズに冒されて卑屈な態度を取る詩人リチャードとその生い立ち、
そして「怪物」との関係。
3つの時代、3つの話のうち、見てて映画として感慨深いのは
ニコール・キッドマンヴァージニア・ウルフ)を中心に据えた1つ目ではなくて、
1951年、『ダロウェイ夫人』を読むごく普通の主婦ジュリアン・ムーアを巡る2つ目。
『ダロウェイ夫人』の何たるか、その雰囲気が最もよく伝わってくるのはこれですね。


3つ目、メリル・ストリープは相変わらずうまくて存在感大なんだけど、
うますぎて最近どれ見ても一緒のように思わなくもない。
ソフィーの選択』という若い頃の一世一代の名演技を見てしまっているとなおさらそう思う。

    • -

この機会に『ダロウェイ夫人』を読む。
ジョイスの『ユリシーズ』やカフカの『城』と並んで、
この時期に生まれた20世紀を代表する小説の1つだと思う。
ロンドンの、とある夏の一日。
「意識の流れ」に沿って、登場人物たちの内と外の動きを描くんだけど、
その奥では何かとてつもなく大きなものが潜んでいる。
その当時の時代意識とでも呼ぶべきもの、
さらにその奥にもっと普遍的な、人類として共通の記憶や精神の構造のようなもの。
それを暴いてしまったような感がある。
虚空に浮かぶ巨大な神殿を僕は思い浮かべる。
もちろん、そこには誰もいない。しんと静まり返っている。
そのような形としての、ヴァージニア・ウルフの孤独。


ヴァージニア・ウルフは史上最高の天才の1人だと僕は思う。
書くために生れて、ひたすら書きまくった。
しかし、その生涯を調べてみるとどの作品であれ易々と仕上げたわけではない。
日々悩みぬいて、何度も何度も書き直し、自信を失ってばかり。
他人の評価が気になってすぐクヨクヨしていた。
毎日が自分との闘い。心の中に抱えていた「怪物」との闘い。
その怪物の得体の知れなさ、途方もない大きさがイコール、彼女の才能だった。
翻弄される自我。振り回されて、それでも、自分自身の内側を見つめ続けた。
言葉で「それ」を描こうとした。


1941年、レナードへの遺書を残して川に身を投げ出すヴァージニア・ウルフ
その作品に触れたその後の世代の読者たちは、自らの内に「怪物」を見出す。
生み出す、ではない。あくまで気付く、のである。
そしてその怪物は一人一人がそれぞれに抱えるものではなく、
人類として共通に抱えるものなのである。