雪の降る町

ホームに降り立った。
すれ違いに車両に乗り込む人たちは皆、両手いっぱいに荷物を抱えていた。
足元の雪が溶けて凍りついたのが、半透明になっている。
線路の向こうは何もかもが白い雪で覆われてなだらかなカーブを描いていた。
飲んでたロングの缶ビールを捨てる。
誰もが階段に向かって急いで歩いていて、僕もその流れに加わった。
彼らには、帰るべき家がある。
通路を渡り、階段を下りて改札を出ると、多くの出迎えの人たちが彼らのことを待っていた。


この町に帰ってくるのは5年ぶりだった。
父と母が亡くなって、住んでいた家を不動産屋に売り払って家財道具一式を処分して、
もう二度とここに戻ってくることは無いと思っていた。
忙しい日々が続いた。
昇格があって、転職があって、不景気になって、新しい恋人に出会って、この秋に別れた。
例年と違って今年は年末年始に大幅な休みが取れることになった。
海外に行くほど金はないし、スノボに行くほど若くはない。
かと言っていつもの自分の部屋に閉じこもってる気にもなれない。


そんなとき、ふと、この町のことを思い出した。
会社の帰り、地下鉄に揺られて取り留めのないことを考えていた。
懐かしい場所で過ごすのもいいんじゃないか。
いてもたってもいられなくなって、アパートに戻ってくるとすぐ、
ネットで新幹線と特急券を予約した。
年末年始で空席はほとんど無し。
かろうじて空いている日程で押さえた。
31日に東京を出て、2日に戻る。まるまるいられるのは元日だけ。


駅前のビジネスホテルを予約していて、チェックインした。
フロントの女性はぎこちない標準語を話した。
カードキーを受け取って、最上階、10階の部屋の中へ。
もしかしたらこのホテルがこの市で最も高い建物なのではないか。
荷物を床に置いて、ダウンジャケットをハンガーにかけた。
厚手のカーテンを開けて窓の外を見る。
吹雪に変わっていた。
夕方ということもあって、空が急に暗くなる。
晦日。ホテルの前が広場になっていて、そこだけが賑わっている。
無数の灯かりに囲まれたクリスマスツリーのようなものが見えた。


下りてみた。地元のテレビ局主催で、カウントダウン大会が開催されるのだという。
高校生たちと思われるカップルが頬を赤くして、寒そうに震えていて、それでも楽しそうにしていた。
改めて駅の方まで行って引き返し、かつては繁華街とされていた
(そして今はシャッター街となった)商店街を端から端まで歩いてみた。
僕の知っていた昔からの喫茶店や古着屋は無くなって、
全国チェーンの居酒屋とカラオケボックスに変わっていた。
高校の頃よく通っていたラーメン屋が路地裏にまだ残っていた。
懐かしい気持ちでいっぱいになって、中に入って味噌チャーシューメンを食べてみた。
記憶していたよりも全然たいしたことない、どこにでもあるごく普通のラーメンだった。


帰りにコンビニに寄って缶ビールを買い込んで部屋に戻った。
カウントダウン大会が盛り上がり始めた。
部屋の中にいても窓の向こうから男女の司会の声と今年のヒット曲が聞こえた。
僕は缶ビールを飲みながら持ってきた小説を読んで過ごした。
うたた寝をして、目を覚ます。
やがて除夜の鐘が遠くから聞こえてきて、携帯を見ると日付が変わって2010年となっていた。
眠ることにした。


目が覚めたら10時を過ぎていた。テレビをつけると正月番組をやっていた。
チャンネルをどんどん変えていって、BSの大自然特集で止めた。
ベッドに寝そべってぼんやりと見る。アフリカ大陸最大の滝、ヴィクトリア瀑布。
生物学者だという白人がジープに乗って英語を話している。字幕が出る。


元日だとは言え、することもない。繁華街を下ったところに神社がある。
そこへ初詣にでも行こうか。昔行った水族館も美術館も開いてないだろうな。
普通なら、こっちに住んでいる中学・高校時代の友人に電話するところなのだろう。
しかし、そんな気分にはなれなかった。
もう何年も会っていない。
「やあ久しぶり?10年ぶり?」みたいな会話は白々しくて嫌だ。
それに向こうも元日にいきなり電話がかかってきたところで家庭もあるだろうに。
そもそも携帯に登録している番号は数少なくて、
そのことごとくが引っ越して番号が変わっているかもしれない。
つまるところ、僕は誰にも会いたくなかった。
東京の友人たちにも、こっちに来ていることは伝えていなかった。


ベッドに寝そべる。生物学者地球温暖化について語る。
今の僕には関係のない話だ。そう思ってテレビを消した。


窓辺に立って、カーテンを開ける。
遠く向こうの雪で覆われた住宅地を眺めているうちに、
僕が生まれ育った家がどうなったのか見てみたくなった。
そうだ、行ってみよう。
僕は顔を洗って歯を磨くと、着替えてダウンジャケットを着て、部屋の外に出た。


僕の家まで、市街地からバスに乗って20分。停留所の数も20個ぐらいか。
バス停の位置は変わっていなかった。だけど周りの風景はすっかり変わっていた。
スーパーもゲーセンもパチンコ屋も店を閉じてそれっきりになっていた。
雪のパラつく中を30分近く待つ。待っているのはほとんどがおばあさんだ。
屋根のあるベンチに座って小さくな寄り固まって待っている。


バスが来て乗り込む。
JRの線路の上にかかった大きな橋を渡る。
そのまま中央の国道を進まず、右に折れ曲がる。
やがて海沿いの道に出る。
北へと向かう。停留所を通り過ぎる。
その名前の一つ一つをよく覚えている。いくつかは名前が変わっていた。
周りの風景は少しずつ、寂れていく。


僕が利用していたバス停の近くまで来て、ボタンを押す。停車する。
雪が厚く積もった地面に下り立つ。湿った、重たい風が吹き抜ける。
この辺りは何も変わっていなかった。というか変わりようが無いのだろう。
バブルがはじけてからの終わりの無い不景気のさなか、
21世紀になった頃、一軒だけあったスーパーがつぶれた。
同じ頃、通りを隔てて向こうにコンビニができた。
それ以来、何も変わっていない。
酒屋があって、寿司屋があって、床屋と電気屋、肉屋兼惣菜屋
それでもう通りはおしまい。


歩き出す。狭い通りに入っていく。軽自動車が通り過ぎて、大型のSUVが追い越していく。
薄手のダウンジャケットを着た僕は寒さに震えて肩を竦めながら歩く。
三叉路で右へ。線路を通り過ぎる。小さな工場と鉄屑置き場があって、その先から住宅街となる。
ここは並び立つ家のラインナップが多少変わったと思う。…自信は無い。


その後、僕の住んでいた家にはどういう家族が住んだのだろう?
同じように何の変哲も無い家族、だけど僕とは違って兄弟姉妹の多い一家を僕は思い浮かべた。
そしてそこには犬がいた。
犬小屋があって、僕が近付いてもなぜか吠えない。
(そう、僕がいくら頼んでも犬は飼ってもらえなかった)


そこから僕は、あの家で過ごした思い出が浮かんでは消えていった。
自転車で怪我をして泣いて帰ってきたときのこと。
初めて屋根の雪下ろしを手伝うようになったときのこと。
高校時代、夜遅く日が変わった頃に帰ってきても、母がまだ起きて待っていたこと。


通りを左に曲がる。そして突き当りを右に。もう少しだ。
隣近所の家もそのまま。5年も時間が経過したとは思えない。
僕は家の前に立った。


…嘘だろ?
家は無くなっていた。
更地になって、そこに近隣の家からの雪がまばらに投げ込まれてあちこちうず高くなっていた。
僕はしばらくの間、立ち尽くした。
呆然として、空き地を眺め続けた。


雪が降っていた。
雪が静かに、僕の肩や頭の上に少しずつ降り積もっていった。


どれだけ経過しただろう、僕はそこから立ち去った。
バスに乗って、駅前へと引き返した。


それだけ。ただ、それだけのこと。
だからどうということもない。
僕は永遠に故郷を喪失した。
誰にだってあることだ。


駅まで戻ってくるとホテルには入らず、そのまま港の方へと向かった。
海辺の公園に一人佇む。
元日に海を見る人間なんて他にいない。
護岸ブロックに囲まれて、わずかばかりの波が穏やかに寄せては返す。
そこに白い雪が次々と吸い込まれていく。溶けて、消えて無くなる。
それが無限に繰り返される。
時間が、止まってしまった。


ホテルのチェックアウトを済ませて、駅へ。
みどりの窓口で明日の指定席を今日のどこかに変更できないか聞いてみた。
これから先、空きはないという。
仕方なく、僕は次の自由席に乗ることにした。


ホームに立って、特急が来るのを待った。
相変わらず雪が降り続ける。
全てを包み込み、呑み尽くす。寒かった。強い風に吹き晒される。
自販機を探して缶コーヒーを買った。温かかった。
ゆっくりと時間をかけて飲み干すと缶を捨てた。
そして僕は携帯を取り出した。
誰でもいいから、話をしたいと思った。