猫田道子『うわさのベーコン』

去年、文学志望仲間だった友人と飲んでいたときに
「最近なんかすごい小説ない?」って聞いたら、
猫田道子という人の『うわさのベーコン』を絶対読んでみた方がいいと勧められた。
彼曰く、「××××の書いた小説なんですよ」と。
完全に、精神を病んでいる。
ストーリーも言葉遣いも皆破綻していて、読んでいてとにかく怖くなる。


猫田という名字が普通にあるとは思えないので、ペンネームなのだろう。
著作はこの『うわさのベーコン』のみ。
とっくの昔に絶版になったようで、amazon では5,000円近い値段がついて、
僕はヤフオクで定価1,480円よりちょっと高いぐらいで入手できた。


表題作は第1回ジュノン小説大賞の最終選考まで残ったものの選者の怒りに触れて落選したという。
下読みの人たちが面白がって残したんだろうな。
というか何かあるように感じたんだろうな。
その気持ち、よく分かる。


木曜に読んだ。会社の行き帰りで一気に読み終えてしまった。
確かに何もかもが脈絡がなくて、日本語がおかしくて、破綻している。
でも、次の一文を、一頁を読みたくなる。
空っぽな世界に魅入られる。


本を開くと著者近影として写真が載っている。
髪の長い、ぱっと見、美人な人だ。
しかし、友人からの予備知識があったため、その目はとても虚ろに見えた。
ゾッとすると同時に、その文体と重ね合わせたとき、切なくて、愛しくて、寂しい気持ちになった。
なんというか、猫田道子という人を守ってあげたくなった。


均衡の狂った、何もない世界。
音楽の好きな女の子が登場して、結婚することを夢見ている。
周りの人たちも善良だ。
そして脈絡なく出来事が語られて、続いていって、終わる。
明るいようでいて、寄る辺がない。
かろうじて小説の形をなしている、拙くて儚い言葉の群れ。
行間に、その奥底に、途方もない闇が広がっているのが垣間見えた。


人はなぜ、小説を書くのか?
昔からの僕の持論としてふたつある。
ひとつにはその人にとって生きるとは何か、この世界とは何かを語ること。
もうひとつは、自分以外の誰かとつながりたいということ。
文章のうまい下手とは関係ない、直接的なメッセージという形を取らない、
もやもやした、やむにやまれぬ気持ち。
僕はこの人の文章に、そこのところを強く感じた。
その剥き出しの素直さに驚かされた。余りにも無防備すぎる。
「魂」がダイレクトに言葉に置き換わっている。


僕はこの人が精神を病んでいるとは思わなかった。
以外に今もあっけらかんと暮らしているのではないか。
音楽を演奏しながら生活をして、ごく普通のありきたりの結婚をした。
そして二度と書くことはなかった。
書く必要がなくなった。
それだけのことではないか。
ただ単に、文章が下手過ぎるだけ。天性の下手さ。
ものすごい作曲の才能がありながら、ひどい音痴というような。


優れた小説とはどういうふうになり立っているのか、構造や力学がどうなっているのか、
こういう作品を読むと何となく見えてくる。
普通、逆だ。文章はうまいが、そつなく破綻がないが、読むに値するほどの魂がかけらほどもない。
魂と文体とが結びついたとき、読み手にはそれがどういうふうになり立っているのか全く見えなくなる。


アンダーグラウンドなロック・ミュージックに詳しい人ならば、
The Shuggs を思い浮かべるだろう。
アメリカのごく普通の姉妹が奏でる、この地上で最もひどい音楽。
演奏力もセンスもない。
なのにものすごくイノセントで、聴いた人の心から良くも悪くも離れなくなる。


他にこういうの読んだことがない。
読んでからずっと、僕もまた空虚な気持を抱えている。
べったりと心に沁みついた。


僕は猫田道子が、幸福に生きていることを願う。


うわさのベーコン

うわさのベーコン