恋をするなら

床屋でかかっていたラジオを聞いていたら
久米宏の番組に東大の文化人類学者が出演していた)
「恋」という言葉は日本にしかない、欧米にはないという話をしていた。
そう言われてみれば確かにそうだ。


「愛」という言葉に包含されるのか。
その様々な様相の1つとなってしまうのだろう。
2人の間での惹かれあい、やがてはもつれあう力学として働く愛もあれば
自分以外の他者全般に働く愛もある。
その、一局面としての恋。


英語に「恋」を表す語彙がないとしても
映画や小説の翻訳のタイトルに「恋」はたくさん出てくる。
例『それでも恋するバルセロナ』(Vicky Cristina Barcelona)
多くの場合、原題にはそういう要素がない。
しかしそこに恋的なものを嗅ぎ取って抽出するのは
とても日本人的なフィルターってことになるのだろう。


刹那的なものに身をやつし、焦がす行為。
2人の間でうつろうものを見つめ、声に出し、触れようとする。
求めようとすると逃れるのに、そこにあるのを確かめようとする。
脆くて、儚くて、うたかたに消える。

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話は全然変わって、最近身の回りで子供が生まれたり、結婚が決まったりで
オカムラさん、結婚の予定はないんですか?」
「子供は若いうちに作ったほうがいいぞ」
「婚活しないとやばいですよ」
などなど、あちこちで心配される。


しないと思う。
いろんなことがめんどくさいから。
1人きりに慣れてしまって、それが染み付いてしまったから。
そこに何かを求めたいという気持ちがないから。


でも、例えば今日のような夏の土曜、することもなく
部屋の中で借りてきた DVD を見て1日が過ぎていく。
明日、日曜もそんな感じ。
来週も。再来週も。それで夏が終わる。
そんなんでいいのか、と心のどこかで思う。
しかし今さらどうすることもできない。
30も半ばに差し掛かったら、いろんなことを諦めてゆく。
これもまたその1つだ。


このところ映画ばっかり見てて、様々な恋が目の前を通り過ぎていく。
缶ビール飲みながら、ぼんやりといろんなことが通り過ぎていく。
世間では猛暑が続く。
気がついたら冬になっていて、僕は36歳になっている。