『シーズ・ソー・ラヴリー』

ことあるごとに言ってきたことだが、
学生時代に出会って以来一番好きな監督はジョン・カサヴェテス
『愛の奇跡』以外は『ラブ・ストリームス』を含めて全部観た。
DVDになったのは全部買った。
複雑な気持ちになりながら『ビッグ・トラブル』も観た。


Tsutaya Discas を利用するようになって
在庫のある DVD は何だって楽に借りられるようになった。
しかし、「これは借りちゃいけない」「見ちゃいけない」
という作品ってものが世の中にはあるもんであって。
この『シーズ・ソー・ラヴリー』がその最たるもの。
ジョン・カサヴェテスが戦前に残した脚本を息子のニック・カサヴェテスが監督。
糟糠の妻ジーナ・ローランズが1場面で登場して嬉しい気持ちになったものの、
盟友ピーター・フォークもベン・ギャザラも出演せず。
少し寂しい。


演出は普通だった。可もなく不可もなく。
脚本の良さというかカサヴェテスらしさと
主演のショーン・ペンの演技力と
(もしかしたらキャリアの中で一番いい演技かもしれないと思った)
脇役のハリー・ディーン・スタントンの存在感でもっているような。
前半、ショーン・ペンロビン・ライト・ペンの破滅的な夫婦が
ダンスホールで踊る場面、
ジョン・カサヴェテスだったらもっとやるせなくなっていたよなあ、
なんて思いながら観る。


名も無き者たちが日常生活というものにしがみつく。
酒に溺れていたり、どうしようもない自分に絶えず振り回されている。
状況はよくない。
感情のもつれや誤解をきっかけとしたささやかな出来事が重なり合って、
さらに状況は悪くなっていく。
溺れて、息苦しくなって、簡単なことで閾値を超えて、何もかもが破綻する。
しかしそれはあくまで小市民の小さな出来事。
どれだけの感情が暴発しようと
当事者以外誰にも知られることのないまま、ひっそりと進行する。
人類とか歴史とかそんなの関係ない。あくまで、個人的な出来事。
ゆえにそのちっぽけな悲しみが、喜びが、観る者の心を捉えて離さない。
人間という生きものは途方もなく小さくて、愚かで、悲しい。
何もかもが虚構に過ぎない。
何もかもが、家族であるとか幸福であるとか、いとも簡単に崩れ去ってしまう。


(ここで昨日のアーサー・ラッセルとつながってくるのだが)
P・K・ディックと同じで
入口は千差万別だとしても結局はいつもの場所、いつもの展開に行き着く。
偉大なるワンパターン。
でもそれは、いつだって間違っていない。根源的で、誰もが求めている。
それを受け取る人、読む人・観る人にとってはひどく単純なことだ。
しかしそれを書く・撮るのはものすごく勇気が必要とされる。


90分ちょっとの小品。
うーん、やはりジョン・カサヴェテスの監督でこの作品を観たかった。