生きるとは何か? どう生きるか?

朝は6時20分に目覚まし時計が鳴る。
特に理由はない。あるとき、たまたまこの時間にセットしてそれっきり。


シャワーを浴びて、歯を磨き、着替えて、その間 NHK の朝のニュースを見る。
7時ちょうどに部屋を出る。
燃えるゴミやペットボトルなどがあったらそれを集積場に運んでいく。
会社鞄の中から通勤定期を取り出して胸のポケットへ。
歩きながら iPhone で音楽を聴く。適当にその日の気分でアルバムを選ぶ。


7時13分頃駅のホームに到着する。1番線のホームに立つ。
即に車両は入っているがそれには乗らない。1本次のを待って最初に乗る。
荻窪駅は丸の内線の始発で、1番線と2番線から交互に発車する。
2番線からは乗らない。
なので厳密に言えば1番線→2番線→1番線と、2本次のに乗ることになる。
理由はない。そういう習慣になっている。


ホームに到着して定位置へ。4両目の2番目のドア。
目の前の車両の、1本やり過ごした後で僕がいつも座る端の席には
今日もまた初老の会社勤めの方が新聞を読みながら座っている。


今日もまた、ベンチに座って携帯を操作したまま眠り込んでいる子がいる。


発車してしばらく経ってからホームに次の車両が入ってくる。
僕はそれに乗り込む。
徹夜のバイト明けなのだろうか? 20代の小柄な女性とよくすれ違う。


僕を含めホームで待っていた人たちが乗車すると
ベンチで携帯を操作したまま眠り込んでいた子が目を覚まして
立ち上がって列の最初に並ぶ。
なんで毎日そうしているのか、どういう事情があるのか分からない。
僕より早く来ているのは確かだけど、それがどれだけ早くからなのかも分からない。


もうずっと、僕が大阪から戻ってきた4月からこの組み合わせが続いている。
そういう仕組で僕を取り囲むこの世界が成り立っていて
誰にも動かせないかのように。


「生きていく」ってそういうことなのだろうか。そういうことなのだろうと思う。
じゃあ朝起きる時間を変えたり、
2番線から乗るようになったら何かが変わるかと言えばそんなことはない。
新しい仕組がワラワラと湧き上がってそれが惰性で続くだけ。

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このところ最も気になっているのはチリの鉱山の落盤事故。
今月5日に発生、33名の作業員がシェルターに避難して、
今月22日全員の生存が確認される。
地下の様子を探るために送り込まれた調査機器に
メモが付与されて回収されたのがきっかけとなる。
しかし、地上から穴を掘って救出に至るにはあと4ヶ月はかかるという。
僕は地下の様子が気になって、日々 YouTube のニュース画像を探す。


真っ暗闇。気温35℃、湿度85%以上という劣悪な環境下において
乏しい桃の缶詰とツナの缶詰を少しずつ交互に食べて飢えをしのいでいた。
希望と絶望。エネルギーを消耗せず、
じっと横たわって耐える以外にできることは何もない。
閉じ込められて、息が詰まりそうになって、
僕なら死ぬことを考えるのではないか・・・


その間何を考えて、無事出られた後は何を考えるか。
何を選び、何を行動するか。
その目は何を語るか。何を言葉にするか。


生きると死ぬの狭間で必死になっている人は
決して「生きるとは何か?」「どう生きるか?」なんてことは考えない。
そんな悠長な余裕はない。
生きている、生きている、生きている。
ただ、それだけ。