『遠野物語』

前々から気になっていた柳田国男の『遠野物語
名前は知っていたけど、具体的にどういうことが書かれているのか
恥ずかしながらよく知らなかった。
民話を集めた物語集のようなもの?
図書館から借りてこの機会に読んでみた。
合わせて、同じく気になっていた森山大道の同タイトルの写真集も借りた。


柳田国男の『遠野物語』は想像していたものと全然違っていた。
一言で言って、冷徹にして孤高。
短ければ2〜3行、長くても文庫で1ページ程度の短文に番号が振られて、
狐の嫁入りだとか天狗に遭遇したとか、大まかなテーマごとに並べられているだけ。
明治42年。遠野に住んでいた詩人にして民族研究家の佐々木喜善氏の元を訪れて
語るのを書き写した。それが全て。
そこに私はこう思った、こう考えたと述べる箇所は1つもない。
じゃあそこに柳田国男はいらないじゃないか、と思うのは早計である。
それらの聞き書きした断片たちを「選んで」「並べた」という視点にこそ、
柳田国男が現われている。
単なる民話集にとどまることのない個人的な執念の賜物と
そういう個人的なしがらみを超越した普遍への到達とが同時になされている。
そこにあるのは日本人としての原風景。
恐れるべきものを恐れ、恥らうべきを恥らう。
しかしそれは「全て」ではない。ほんの一握りが、
山村で語られてきた不思議な出来事が、砂浜の貝殻のように拾われただけ。
読んでいるとこの『遠野物語』で用意された枠組、
その外側に広がる果てしない日々の何気ない連なり、広がり、
その重みを何よりも感じる。
この国の民俗学の出発点としてだけではなく、
文学作品としても一級だとされてきたことがよくわかった。
文学が追い求めた物語というもの、その大いなる流れがここには描かれている。


文庫では角川、集英社、岩波から出ていて、僕は角川のを読んだ。
角川版は続編に当たる「遠野物語拾異」が併録されていて、
その後さらに収集された話が続く。これがさらに余韻を深める。
遠野の地図が巻末に綴じられているのが何よりもいい。
時々この地図を眺めながら読んでいくと、想像力が広がっていく。


森山大道の『遠野物語』は
オリジナルのテキストに魅せられた無数のフォロワーたちのオマージュの中で
恐らく最高のものだ。僕はこれ1つしか触れていないけど、
この写真集が同じだけの深さを持って対峙しようとしているのはよく分かる。


1970年代半ば。なんだかとても東北的な、
あっけらかんとしていてどんよりとした、昭和の風景がモノクロで写されている。
遠野物語』との直接的な関係は感じられない。
「遠野」じゃなく、どこか他の場所であったとしてもおかしくない。
「遠野」そのものではなく、
原風景としてこの国のどこにでもある「遠野的」なものを撮りたかったのではないか。
それはこんな風景だ。
山の手前に青々とした水田が広がる。不思議と精気のない祭り。
ポルノ雑誌が色褪せたかのように棚に並んでいる。狭い通りに並んだスナック。
人々の生きて、日々を語る場所は、今、現在こうなのだ。
というありのままを切り取る。


そう。「遠野」は閉じられた歴史上の一点ではない。
開かれた時空間として今もそれは日本という国の根っこを形作っている。
遠くにあって、思い浮かべるふるさと。


最後に。この素朴な写真集で素晴らしいのは
写真もさることながら巻末の森山大道の文章。
(インタビューを元に起こされている)
いかにしてこの写真集が生まれたのか、がテーマで
あれこれ感慨深いことが述べられているんだけど、
僕が最も感銘を受けたのは
カメラによって撮られたものは記録であるが、写真は記憶なのだということ。

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

遠野物語 (光文社文庫)

遠野物語 (光文社文庫)