映画と原作の関係

昨晩、映画版の『ソラニン』を半分だけ観た。
(『タッチ』で言ったら、上杉和也が事故に遭うまで)


バンドの3人のキャラクター造形だったり空気感だったり。
原作の、浅野いにおの漫画を忠実に再現している。
半分観た限りではストーリーの展開も全く一緒。
いわゆる完コピ。焼き直し。


あ、こんなふうに料理するんだと思った箇所は皆無。
この先どうなるのか分かるわけだし、
僕がこの映画を観る意味ってなんかあるんだろうか? とすら思った。


映画と原作の関係を考えた。
当たり前の話だけど、
監督サイドからこの小説なり漫画なりを映画にしたいというときには
その世界観なりストーリーの枠組みなりを借りて
そこに監督の思想をぶつけて全く別なものにしてしまうことも可能だろう。
原作と映画が対峙する。
惑星ソラリス』について、その最良の例は
原作のスタニスワフ・レムと監督のアンドレイ・タルコフスキーだと思う。


しかし、映画会社なり出版社で立ち上がった原作ありきの「企画」ならば
雇われ監督は余計なことをしない方が無難。
新しい商品として映画というフォーマットに収まればいい。
売り出し中の若手俳優が元気な姿を見せたらなおよし。
というかそれが必須条件か。
(僕は最近の日本映画のいくつかを思い浮かべた)


後者の映画は僕としては興味ないんだけど、世の中的には断然後者なんだろうな。
まずは原作のファンに訴えかけて、その派生商品として扱う。
漫画のキャラクター・グッズの最終形のような。
そこにあるのは映画ではなく、映画のフォーマットだ。
でき上がるのは映画ではなく、動画。
何か大事なところがすっぽり抜けてて、物足りなさを僕は感じる。


まあ実際にはこんな簡単にきれいに線が引けるわけではなくて、
雇われだけど自分なりのカラーを打ち出す監督は多いだろうし、
完コピするという行為そのものが意思表示としてのアートになる例もある。
(まだ観てないけど、ヒッチコックの『サイコ』を
 ガス・ヴァン・サントがリメイクしたのがそうなのだと思う)


いや、ただ単に後者の場合は若手の監督が起用されることが多いから、
まだ経験不足で「なり」が小さいのかもしれない。
ただそれだけなのかも。
映画という枠組みをまだ自由自在に使いこなせていなくて、
フォーマットだけが浮いて見える。
・・・なんかそう思えてきた。


それにしても。原作そのものが映画の場合を思ったとき、
ハリウッドのリメイクばやりの状況はいつまで続くのだろう? 
ってのがずっと気になってる。
(リメイク権獲得競争など)
映画界を空洞化させるだけのようにしか思えないのだが・・・