編集学校で「離」を受講したということもあり、
今年はほんと図書館をよく利用した。
修了者を対象としたプロジェクトに関わっているということもあって、
今もせっせと通ってる。
ピーク時は毎日。
特定のジャンルの本を山ほど借りて、返して、次のジャンルのを借りて、
というのを繰り返している。
仕事がうまくいってないときは、
「ああ、僕も図書館で働きたいなあ」とそればかり考えていた。
返ってきた本を棚に戻す。リクエストがあった本を書庫に取りに行く。
単調な作業かもしれない。
だけどそれは僕のような人間には向いているように思った。
いや、とある日気付いた。無理だ。
図書館という場所はそもそも建物としての大きさが決まっている。
棚の配置もそうそう変わることはないだろう。
何週間後か何ヵ月後か。
どの本がどこにあるか把握しきったとき、
僕はその空間をとても狭く感じて、息苦しさすら覚えるだろう。
少しずつ入れ替わって古い本は書庫へという移動は日々あるとしても
俯瞰したときにそのスピードは恐ろしくゆっくりだ。
ひっそりとした本の群れの中に閉じ込められる。
図書館に置かれている本は日々手に取って読まれている。
しかし、「生きている」という感覚はない。
どちらかと言うとそれは風化した死体のように思える。
くたびれて書き込みがなされて、しばらく誰も読んでなかったような本は特に。
絶滅種の標本のような。
そう、図書館は僕にとって墓場のようなものだ。言葉は悪いが。
本という形を取った「過去」に会いに行く。現在でも未来でもない。
ほっとくと、静かに朽ち果てていく。
そもそも文化というものが、実はそういうものなのだ。
本は読まれているときではなくて、
書店に並んでいるときが花なのではないかと最近思う。
結婚する前の娘時代と、結婚してからの主婦の時代のような関係がある。
そして図書館とは、倦怠期の夫婦のようだ。
そのとき、図書館の司書とはカウンセラーの役割に近い。
単に本を探したり、貸し出しや返却の窓口業務を行うだけではなく。