ホワイトヘッドに関するノート

時間と空間は最初からそこにあるわけではない。
この世界を構成する枠組みという位置づけで
ビッグバン以来所与のものとして存在する、ということはない。
切り取ったときに「時間」「空間」という名前をつけやすかった
出来事の連続性がそこにあったというに過ぎない。


その代わり、そこにあるのは「場」である。
アインシュタインの「重力場」など。
 そこでは時間と空間はニュートンの言うように絶対ではない)
僕の解釈としてそれは「地」と「図」の関係にあって
「意味」の力学によって突出する出来事とその背景とから成り立つ。


そこでは「もの」は存在しない。
「もの」として知覚される「こと」(出来事)があるだけである。
言語は後付でそれを抽象化して切り出したがる。
だからそれは不安定なものである。
そしてそれら「こと」が全て1回限りであるがゆえに
今ここで便宜上「もの」として表した何かも、
同じ「もの」は1つとして存在しない。


「こと」は生まれては都度消えていく。
(「瞬間」よりは「都度」の方がよいだろう)
その場では電子サイズから人類が「歴史の一コマ」と呼んだ事象まで
無数の「こと」たちが現われては消えていく。
その関係性の網の目が絶えず変化する。連鎖する。
その隙間に「主体」が立ち上がり、垣間見える。
だから主体は人類や高等生物だけが持つのではない。
「こと」で生起する全てがそれぞれの仕方で主体を持っている。


主体が主体となり、目の前の出来事を「もの」として捉え
結びつけるところに「象徴」が働く。言葉として作用する。


そこには無条件での(ベルクソンが言うところの)「持続」はない。
過去として過ぎ去った「こと」の群れが主体にそう感じさせているだけである。
感覚するものとされるもの。「もの」…


我々は言葉と感覚と「もの」の呪縛に雁字搦めになっていると僕は思う。
この世界をありのままに見てありのままに記述することを難しくさせる。
そこに法則性(ルール)や方法を見出す。
ホワイトヘッドですら難航したのに、僕らにはそれができるのか?


僕は何もない背景の中でポツンと1つきり広がっていた粘菌類の中心が持ち上がり、
ふとした瞬間に分裂する様を思い浮かべる。
そしてインド哲学における時間の捉え方、生成と持続と消滅を思い浮かべる。
そのつながりについて考えてみたいが、とてつもない作業だ。
しかし、「考える」とか「学ぶ」というのはそういうことなのだ。


今ここに僕という存在があって、
オフィスにいてPCを前にしているというこの事実が幻だと言いたいのではない。
上で挙げたようなぎこちない、どこか直感的にかけ離れた記述をもってしても
それをどこまで深めていったとしても
この世界は十全に語りえないのだということ。


詩人ならばそれを、その本質を、たった一言、
あるいはいくつかの言葉の組み合わせで言い表せるだろう。
しかし僕らは、僕らの誰もが、詩人ではない。
しかも詩人であってもあらゆる時にそれがなしえるのではないということ。
ウィトゲンシュタインは言う。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」