フェミニズムについて、続き

入院時はサイバー・フェミニズムの大御所ダナ・ハラウェイ
(&巽孝之小谷真理が編集)による『サイボーグ・フェミニズム』と
第三世界における暴力的な女性差別を告発した『ハーフ・ザ・スカイ』を読んでいた。
その後もまだ細々とフェミニズムについて考えています。


『ハーフ・ザ・スカイ』とは毛沢東の言った
「空の半分は女性が支えている」から来ている。
その中にこんなことが書かれていた。
発展途上国の妊産婦は、治療不可能な疾病で死亡しているのではない。
命を救うに値すると社会が判断しないから死亡しているのだ。
多くの男性は血にまみれ、汚いと生理的な嫌悪感を持つ。


そうか。”血”だ。そこにあるんだ。
理論や論理で語れないことの多くは遡っていくと血に辿り着くように思う。
血族や血の穢れというもの。
その呪縛から逃れるために人類は論理というものを生み出して磨き上げていった。
それが行き着いて論理だけで全て語れるようになったという錯覚と
その崩壊が20世紀だった。


フェミニズムは、論理対論理の議論の中で血を匂わせたから
男性たちの反発を食らったのではないか。
しかもそれは戦場で流される名誉のシンボルとしての血ではなく、
生理的な、日常生活における生々しい血液である。

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1人の人間に対して、女性ないしは男性という性別を割り当てるというとき、
それは単純に生物学的な根拠から決まるのではなく
多くの場合、実際にはその場の”状況”が決定している。
「私を取り巻く視線は私を女性として見ている、
 だから女性という役割をここでは担わないといけない」


そしてその視線があなたを”女性”とみなすには
外見や振る舞いにおける様々な要素・パーツを
その時点での社会的なコードに照らし合わせて、総合的に・全体として判断する。
もしかしたらたった1つの、敵対者にとっては決定的な要素が
あなたを”女性”(というか敵)と位置づけるかもしれない。
どうにも判断がつかなくて中性として判断停止するかもしれない。
ジェンダー”はその個々の要素と全体的なイメージと両方に作用する。


その与えられた、押し付けられた”女性”を拒否するには
やはりその当事者が声に出して否定しなければならない。
それを1人の声で個人的な行為として行うか、同じ境遇の者が集まって連帯するか。


(とはいえ「個人的なことは政治的である」という有名なフレーズ。
 個人とされる領域にも男性支配の原理が入り込んでいる。そこに政治が生まれる。
 ”女性”は決して1人になれないように仕組まれ、
 女である前に”私”であるという立場は男たちによって否定されてきた。
 男は女を、様々な意味で必要とする)


耳をふさいでも聞こえてくる”声”の獲得。
20世紀の女性たちがフェミニズムによって成し遂げたのはそういうことか。
社会的な場において声を決定するものは音として高いか低いかではなく、
そこに込められた意思、メッセージだ。

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余談。イタリア語ではフェミニズムは「フェミニズモ」となる。
なんだかマッチョな感じがする。「マチズモ」からの連想でしかないですが。
「O」の音で終わるって、女性的じゃないですよね。イタリア語だと中性なのかな。


アントニオ・ネグリ(この人自身はフェミニズムと直接の関係はないですが)や
ダラ・コスタのイメージから
イタリアのフェミニズムとなるとキーワードは”労働”とはなんぞや。
「フェミニズモ」というゴツイ語感に結びつくような。
(”イメージ”に毒されてますね)