『ノルウェイの森』

ノルウェイの森』が昨日公開初日。さっそく観に行ってきた。


六本木ヒルズへ。早めに出てきて青山ブックセンターで本を物色したり、
国立新美術館の地下で freitag のカバンを漁ったりして過ごした。
今やってる没後120年のゴッホ展はチケット売り場が行列。
中に入るまで20分待ちとのことだった。
クリスマスを前にして、六本木はとても賑わっていた。


展望台に上ろうとするが、こちらも長蛇の列。諦める。
このところ東京は晴天が続いていて、
こんな穏やかな日に「東京」を眺めることができたら。

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TOHOシネマズは動くのもままならないぐらい、大混雑。
ノルウェイの森』だけではないだろう。


全席完売。シアター内は8割方おしゃれなカップル。あるいは女性2人とか。
(それにしてもカップルってなんで
 その劇場で売っている最大サイズのポップコーンを買うものなんでしょうね?)


そうか、これは”恋愛映画”なのだ。
村上春樹や監督のトラン・アン・ユンは話題の1つに過ぎない。
恐らく半分以上の人たちが原作を読んだことないだろう。
例えばシネマライズユーロスペースに漂ってるような
サブカル的な雰囲気は一切感じられなかった。


映画が始まって、終わる。
なるほど、と思う。映画化として成功している。とてもうまくいっている。
トラン・アン・ユンはきちんと向かい合ったと思う。
1人の文学作品としての『ノルウェイの森』と
1人の現代に生きる作家としての村上春樹に。
”世界のハルキムラカミ”におもねったりなどしない。


木漏れ日やプールのゆらめき。草原。浅く降り積もった白い雪。
しっとりとした瑞々しい映像で文体を書き換える。
揺らいで、流れて。官能的で生々しい場面へと自然につながっていく。


1つのヒントとして、外国人の監督だったということがよかったのだろう。
恐らくトラン・アン・ユンは英語で『ノルウェイの森』を読んで、
英語で脚本が書かれて、それが日本語に置き換わって撮影された。
村上春樹の最初の長編小説『風の歌を聞け』が
日本語で書かれたのちに自分自身で英訳して、
それをまた日本語に訳し直したというプロセスを経て生まれたというのに似ている。
文体を作っていくにあたって、まずは言語から問い直してみるというような。
”トランス”レーションの隙間にあるものを拾い集めていく。


最初菊地凛子が”直子”で”ワタナベ”が松山ケンイチと聞いたとき、
「おいおい、大丈夫かよ」と正直思った。
20歳になった頃初めて読んだとき、30歳になって再度読んだとき、
そんな配役思いつかなかった。
というかどんな役者も当てはまらないように思った。直子は直子、緑は緑。
しかし見終わってみると
菊地凛子の”直子”も松山ケンイチの”ワタナベ”もしっくりきていた。
この映画としてのかけがえのないパーツになっていた。
他のキャストはありえない、というのではない。
その可能性は誰よりも賭けるに値した、ということだ。


菊地凛子の”直子”は世界に今2人きりというような場面で
突如泣き叫ぶような不安定な人間を
その全体として、1人の人間として、さらりと体現していた。
スイッチが入ったから叫びます、というのではなくて、直子だから、というような。


”緑”役の水原希子は逆に、この人以外の”緑”は今、他に考えられない。


最後、音楽について。
Radioheadジョニー・グリーンウッドが担当なんだけど、
恐らく自分で弾いていると思われるアコースティック・ギターの簡素なフレーズ、
不協和音を多用したオーケーストレーションももちろんいいんだけど
なんといってもCANの曲を選んだという閃きが何よりも素晴らしい。
「Mary, Mary, So Contrary」
「Don't Turn the Light On, Leave Me Alone」
「She Brings the Rain」
「Deadlock」
「Bring Me Coffee of Tea」
どこにも属そうとしない、この世界に投げ出された異物たらんとするCANの音楽。
その中でもメロウな曲が選ばれている。
驚くぐらい、映像にぴったりと合っていた。
最後の方、重要な場面で流れたThe Doorsの「Indian Summer」も使い方が憎い。


などなど。
とはいえ結局のところ多くのカップルたちは見終わって
「エッチだったね」なんて言い合うのだろう。
誰がどこでどんなシチュエーションで見たとしても、この映画とても気まずい。