この2011年という時代に36歳の僕は何を書くべきなのか?

小説を書くということは
その作者(ないしは思いを託された登場人物)がいかにこの世界を捉えるか、
いかにこの世界と向き合うかを描くことにある。


しかし、どう思うかというところを
直接口に出して言わせたら小説として書く意味がない。


それは何らかの象徴的な出来事や行為、
主人公と他者(人かもしれないし動物かもしれないし物かもしれない)
とのやりとりを通じて何かが変化する様子として描かれなければならない。
この「変化」というところが物語のキモだ。


どういう人がどういう状況でどういうことをしたらどういう変化が訪れたのか。
それは起きてほしい物事かもしれないし、起きてほしくない物事かもしれない。
それを教訓として、あるいは手引きとして語り継いだのが
そもそもの物語というものだ。

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この「象徴的な出来事や行為」のところで今、悩んでいる。
この2011年という時代に36歳の僕は何を書くべきなのか?
(世界をどう位置づけるかというところの個人的な意見はある)


意外性をもたらす殺人なのか。身の回りのちょっとした恋愛なのか。
はたまたテロや革命なのか。


いや、本当は何だっていいのだ。
生まれて初めて犬を飼って、犬小屋を作った(そして指先を怪我した)
というのでもいい。
しかしそこに僕としての必然性や切実さがなければならない。


そこのところを思いつけない、自分の中から出てこないというのならば
僕はこの世界というか世の中というものと
本気で向き合っていないということになる。


歴史小説やノンフィクションを書くという手段もあるが、
 それはいったんおいておく)


昨日・今日と考えていてしっくり来るのは旅、ないしは逃避行。
とはいえ「海を見に行きました」だとありがち過ぎる。
どこへ行くべきなのか。具体的な場所と、その象徴的な意味。
海外なのか国内なのか。近いのか、遠いのか。
そこには到達できるのか。そこには何があるのか。
その途上でどんな困難が待ち受けているのか。
逃げ出したいのか。出会いたいのか。


またもうしばらく考える。