昨年末、訳あってフェミニズムにどっぷり浸かっていた。
それがひと段落して、どこに関心が向かうかと言えばアナキズムとなる。
(フェミニズムはアナキズムと同根なんですね。
人類が社会というものをもったときから流れ始めた轟々たる地下水脈が
例えばフランス革命をきっかけに噴出した)
これでもう、行き着くところまで行き着いたように思う。
世の中の様々な変化/事象の根源にある力学は
(ものすごく広義の意味での)アナキズムという呼び方に集約されると言っていい。
僕は今、そんなふうに考える。
正直な話、つい数ヶ月前まで僕もそれが何なのかちっとも分かっていなかった。
アナキズムとテロリズムの違いがついてない。
それどころかコミュニズムとの関係にも無頓着だった。大きな差はないというか。
いやー…
無知でした。
アナキズムはテロリズムと同義というか、アナキスト=テロリストというか。
あるいは、僕がアナキズムとかアナーキーというものに抱いていたイメージってのは
周りの人の迷惑を無視して好き放題やること、わめき散らすこと。
世の中の多くの人もそんな感じではないだろうか。
(とはいえ、長らくそういうイメージを与えてきたのは
メディアの策略であって・・・、という議論は僕自身あんまり興味がない)
アナキズムを批判する立場の人たち、
特にコミュニズムの立場の人たちの書いたものをまだ読んでないので
僕は都合のいい解釈をしているのかもしれないけど、
そしてそれは人によっては「毒されてる」と言うかもしれないけど、
アナキズムの本質は個人の自由を”どこまでも””何よりも”尊重することにある。
ここで言う自由とは
上記のような短絡的な「好き放題やっていい」ってことではなく、
個人が選択肢の幅を広げられること、
その中から自ら選び取ることができるということ、
その選択について言葉に出して主張することも行動に出ることも
本質的に誰によっても妨げられるべきではないということを指す。
じゃあその個人が1人きりで生きていけばいいのかというとそんなことはなく、
何かしらの目的や利害関係の一致、あるいは地理的条件などにより集団が形成され、
それがひいては社会となっていく。
もしそれが有機的なネットワークを形成し、
各個人がそれぞれ顔の見える主体的な個人であり続けるならば
アナキズムはそれを否定しない。
しかしそのどこかに飛躍が生まれて、権力が独占されて、
国家や政府や画一的なグローバリゼーションというものになって
抑圧を行なうならば、アナキズムはそれを否定する。
つまり、その組織の全体性(=システム)が硬直化して
個々の人間たちの集まりという具体性が見えなくなって、
「上からの権威」が振りかざされるとき、
「下からの突き上げ」を行うということだ。
それは政治の場面に限らない。
変化の生まれるところ全てに当てはまる。
エントロピーの増大に逆らう局面全てと言っていい。
(そしてそこには、それが状況に対する「変化」として意味をもつための
ルールや役割が生まれ、必要とされる)
だからまあ話が飛ぶけどエコロジーどころかスローライフなんかも
ある意味広い意味でのアナキズムの現われなんですね。
ヌーディストもただ裸になったら気持ちいいというだけじゃなく、
そこに何らかの意思や主張を込めるのならばアナキズムとなる。
うまく言えないな。これだと何でもかんでもアナキズムとなってしまう。
やっぱりまだ分かってないな・・・
とりあえず今僕はフランス革命とパリ・コミューンの間における
プルードン、バクーニン、クロポトキンといった
主要な思想家の概要のさらに荒いところをようやく押さえることができて、
第一インターナショナルにおけるマルクス主義者とアナキストたちの対立、
その後「直接行動」が19世紀末のテロリズムから
20世紀初頭のアナルコ・サンジカリズムへ、
と移り変わっていくという流れがだいたいのところ見えてきた。
そしてロシア革命とスペイン内戦へ。
日本では幸徳秋水と大杉栄へ。
流れは絡み合って、さらに労働組合とパリ5月革命と連合赤軍とアルカイダと。
そういうところに歴史はつながっていった。
アナキズムとは別の力学に取り込まれて、蝕まれて。
もちろん僕はそれらに肩入れするつもりもなく、
老子がそのルーツの1人だとするアナキズムの立場があるならば、
そういうゆるやかなアナキズムの考え方は受け入れられるというか。
だから目の前に共感できるデモがあったら加わるかといえば
これまで通り加わることはないだろうし、
印刷工(民衆と知識人の間をつなぐ労働者)に憧れるということもない。
ただ、その本質は興味深いというか。
その最もプリミティブな部分での力学が。
だから例えば最近「ノイズ」というものがとても気になっていて。
アトランダムな雑音・騒音のことではなくて、
エントロピーを反転する力の現われとして。
新しいものというのは表現であれ事象であれ、
最初得体の知れないノイズとして現れて、やがてそこにパターンが生まれていく。
世間に受け入れられて、ややもするとありふれたものになっていく。
そういう力学としてのアナキズム。
10代にパンク・ロックに目覚めて、
大学院でミハイル・バフチンを専攻しようとした僕からしてみれば
すんなり受け入れることができた。
というか逆になんでそういったものに興味を持ったのかが分かった。
盲従せず個々人が何かを変えようとすることが、僕は好きなのだ。