抽象というもの

先月ベルリンに行ったとき、歩きながら、あれこれのものを見ながら、
「抽象とは何か?」ということを考えていた。


1月末ぐらいにイスラム教の聖地メッカとメディナの写真集をたまたま眺めていたら、
カアバ神殿とは実際には空洞になった石組みの直方体であることを知る。
その中に偶像や宝物があるのではない。
これを礼拝の日には何十万もの人たちが集まって、取り囲んで、
反時計回りに回るという。
究極の抽象。


ベルリンではホロコースト記念碑が同じように、
様々な高さの直方体を広場いっぱいに敷き詰めたものだった。
文字や彫像が彫られたり、写真が飾られたりということは一切ない。
普通、犠牲者をなんらか象った記念碑を作ったりするものだが。
しかしこの方がはるかに、歴史の重みや出来事の恐ろしさが伝わってきた。


あるいは、バウハウス資料館。
何が芸術で、何が生活用品なのか。
その違いは、その境目は、どこから生まれるのか。


それまでの僕は、抽象とは単純化だと思っていた。
違う。それは抽象の”現れ方”の一つでしかない。
抽象が何であるのかということを話すよりも、
なぜ抽象が必要なのかということを話した方がいいだろう。
それはごく簡単なことで、
そこに「意味」を込めるための枠組みや器を用意するということなのだ。
そしてそこにどれだけの意味(強さや多様性)を込められるか、
がそのまま抽象の度合いの高まりとなる。
リアルなものはどこまで行ってもリアルなものであって、
そこに例えばあなたの解釈や感想を与えるならば、
そこにはなんらか抽象化が働いたということになる。


ならば必然的に、抽象化のツールの最たるものは言葉、言語ということになる。
文章とはそこに意味を、その時々の意味を生み出すための言葉の連なりでしかない。
そしてその意味を特定の方向に誘導させるのか、受け手に委ねるのか、
そこのところをあれこれ強弱つけているに過ぎない。
言葉が記号であるというのは、そういうことなのだ。
小説を読んだり書いたりするということも、
突き詰めるとそういう抽象の操作ということになる。
レンズやフィルターの切り替えがそのまま、小説の技法となる。


「分かる」ということも、その前段に抽象の段階が働く必要がある。
対象を捉える、感覚器官が受容するということの次に。
それを何かしら並べたり結びつけたりするというのは
(言語による対象の完全な置き換えという以外に)
それらを可能とする糊代としての抽象化が働くのだ。


そのことに気付いたとき、抽象とはとても恐ろしいものに感じられた。
ぞっとした。


例えば2つの四角形がそこに並んでいて、それが全く同じ大きさだったとき、
そこに人は何を見出すか。
あなたは何を思い浮かべるか。
10年前のあなただったならば、10年後のあなただったならばどうか。
片方が大きくて片方が小さかったらどうか。
片方にだけ色がついていたらどうか。
それが黒や白やだったら。赤だったら。
一部分が重なり合っていたら、どちらかが完全に内側に入っていたら。
たったそれだけのことが多様な、もしかしたら無限の意味を生み出す。


それらの意味は浮かび上がっては消えていく。うつろっていく。
それはもしかしたら周りの人に、後世の人に、伝えたいものかもしれない。
そのとき初めて働くのが、「具体」化ないしは具現化ということになる。


そこまで考えて、本源的な「無」は抽象なのか具体なのか。
だったら「有」は何なのか。
インド哲学で言うところの「空」とは何なのか。
行き詰まって、それ以上考えることが怖くなった。


というか、今の僕が考えてはいけないと思った。
日々を生きるということが、とてつもないことになってくる。


何かが見えそうで、見えない。