2ヵ月後

もろもろあって、午前休む。床屋に行く。
待っている間に、この頃会社の行き帰りに読んでいた本を読み終える。
ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』 (新潮クレスト・ブックス)
http://www.amazon.co.jp/dp/4105900897/
21世紀のオタク文化と20世紀半ばの圧政下のドミニカ共和国とが
大胆に交錯する文字通り『凄まじい』小説だった。


何か読むものは無いかと駅前の本屋に入ろうとしたときに
入り口で震災関係の別冊ものが目に留まる。
何社か出ているうち、『AERA』の増刊号にする。特に理由は無い。
強いて言えば、どことなくクールでスタイリッシュなところ。
東日本大震災 レンズが震えた 世界のフォトグラファーの決定版写真集』
http://www.amazon.co.jp/dp/B004VMUJ6S/


入ったラーメン屋とその後の丸の内線の車内でパラパラとめくる。
名だたる写真家を起用し、報道というよりも記録アート的な写真を集めている。
外国人の「作品」は意図的にモノクロ映画のような質感へと変貌していた。
これは賛否両論あるだろうな、と思って後ほど amazon のレビューを読んでみたら
「もの凄く不快」であるとか、辛辣な意見が多かった。


生々しくもあり、突き放すようでもあり。
人間を撮っているようでもあり、その背景だけに興味があるようでもあり。
冷静な記録のようでもあり、風化していく記憶のようでもあり。
この試みは視点を相対化させるものなのか。
偏っているのか、いないのか。


「外」側から撮って集めるとしたら、こうとしかならないのではないか。
それを「内」側から批判しても永遠に噛み合わない。
意識も、視点も、何もかもが異なる。ごく当たり前のこと。
なのに震災からの1ヶ月はただただそのことだけをめぐって
多くの人々がいがみ合っていたように思う。

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最近、3.11その日ではなく、そこからの数日のことを思い出すことの方が多い。
3.11は東京だと「あの日どうやって帰った?」というのが今でも話題となったりして
まだ「なんだ? どうした?」ってきょとんとしていたのが
続く土日はTwitter上にヤシマ作戦が突如として溢れだし、
そして月曜になって交通機関が麻痺。
少しずつ何かとてつもない大きさの非日常へと
ズルズルと呑みこまれていくような、そんなゾッとする感触があった。
台風の前の生ぬるい空気が辺りに立ち込めて、妙に重々しくて静けさに満ちた。


ミネラルウォーターはいつのまにかまた普通に手に入るようになった。
節電しても影響ないものはこれから先永遠に省かれたものになるだろう。
多くの物事が元に戻っていった、あるいは慣れていった。
あるいは、多くのことを諦めるようになった。


未読の新聞の山から3月10日のが出てきた。
1面の見出しは「子ども手当て半年延長」だった。
他に、「上野のパンダ リーリーとシンシンに」