「タイトル未定」(3.植物園)

日曜の午後、子供たちを連れて植物園へと向かう。
あの人もまた子供たちを連れて一緒に。
時間を決めて駅を出たところのバス停で待ち合わせをする。
あの人たちが先に来ている。子供たちが賑やかな声で挨拶をする。
あの人と目が合う。意味ありげに笑いかける。
ふっと視線をそらす。今日の空はどこまでも灰色だ。


バスが来て乗り込む。一番後ろの席が空いている。
子供たちを4人並ばせて座らせてあの人の隣に私が座る。
子供たちがはしゃぎだすので静かにさせる。
皆が私たちのことを見ているように思う。
「しーっ。お姉さんなんだから静かにさせなさい」
私の娘とあの人の息子が手を握り合う。
バスは渋滞に巻き込まれてノロノロと進んでいく。
交差点を大きくカーブする。
あの人が背負ってきた大きなリュックサックが揺れる。
中にはいったい何が入っているのだろう? 絵本に水筒?
私なんて化粧品と手帳とお財布とショールと…
「旦那は?」普通に聞いてくる。
「仕事」
「よく働くね」
「ローンあるし」
四人の中で一番下の子が眠りついたのが視界に入る。
いったい何のにおいなんだろう? この、不快な。
バスのにおいか。小さな頃から苦手だった。
気を紛らわせようとして窓の外を見る。灰色。
あの人の手がデニムパンツの上からそっと私の膝の辺りに触れる。
「旦那は?」
私は何も答えない。
「ひとつ、ふたつ、みっつかぞえて」そんな歌を思い出す。
手が離れて、私は息を吐き出す。


バスの中に立っている人たち。
重そうな買い物袋を二つ提げたおばさんが一人俯いて立っている。
太っている。なんだかどこか小刻みに震えていた。
その周りが不自然に空いている。
目の前の席が空いているのに、座ろうとしない。
どんな目をしているのかが見たくなる。
だけど、よく見えない。
どこか遠くで携帯が鳴っている。ずっと鳴っていたことに気づく。
なぜ、出ないのだろう?
いや、私にしか聞こえないのか。思わず唇を噛む。
「次は…」乾いた女性の声で、テープの車内アナウンス。
誰かがボタンを押して、バスは次の停留所で停まる。


あの人の奥さんは今日のことを知ってるのだろうか?
知らないわけがないだろう。子供たちを連れて行くのだから。
どうしていいと言ったのだろう? 理解できない。
私なら絶対いいって言わない。
これまでに何度か会ったことがある。良くも悪くもない。
ただ、あの人の奥さんというだけ。
私たちは当たり障りのない世間話をした。
駅前のショッピングモールにできた新しい店のことを話した。
「知ってる! ウィンドウに並んでた夏物の…」
そこから先のことを思い出せない。
ただ、無邪気な笑顔だったことは覚えている。
どうして、あんなふうに笑えるのだろう?
私も、笑ってみせた。
あの人がもう一度、私の膝に触れた。
携帯でゆっくりとメールを打ちながら。
今度はあの人の好きなようにさせる。


バスが植物園に着いた。
子供たちを先に下りさせる。
息子が入り口に向かってトコトコと走り出した。危ない。
バスカードで親子3人分払って、外に出ると息子を追いかけた。
けっこう先まで行っていて、かなりの距離を走る。
肩をぎゅっと掴んだ。振り向いた息子は泣き出しそうな顔をしている。
だっこする。話しかける。思いついた言葉を口にする。
カバンが地面に落ちる。グシャッという音がする。え?
ここでは何が、起きているの。
目まいがする。何かがどこか遠くで回っている。
息子をそっと下ろすと、私はうずくまった。
「どうかした?」あの人が背後から話しかけてくる。
そして指で背中を突く。やめて。
もう一度、「どうかした?」
そのとき私の中で何かがふっと静止する。
消えてなくなって、目の前には斜めになったアスファルトが広がる。
何度か深呼吸して、私は立ち上がる。
「急に走ったから」
娘がポカンとして立っている。爪をかじっている。
あの癖を何とかしてやめさせたい。
その隣であの人の息子が意味もなく立ったりしゃがんだり。
「大丈夫?」
「うん」
歩き出す。そうすると皆がついてきた。
私が何も言わないから、誰も何も言わない。
入口の券売機へと向かう。
そこには既に大勢の人たちがいて、並んでいた。
「待ってて。みんなの分買うから」あの人が一人行列に加わる。
四人の子供たちをベンチの方へと促す。
私も座る。娘を抱きかかえようとしたら、嫌がった。
じゃあ、好きにすればいい。
目まいがまだかすかに続いている。帰ったほうがいいだろうか。
子供たちががっかりする。あとでさんざん言われる。
辛くなったら、園内のどこかに座って待っていればいい。
子供たちがアニメの主題歌を歌い始める。
一人が歌い始めると、皆がそれに加わる。てんでばらばらに。
今の私は、それを聞くより他にすることがない。
どうして私は、こんなところに来てしまったのだろう?


あの人が笑顔で入場券を振りながら戻ってくる。
子供たち一人一人に手渡して、立ち上がって、最後に私。
「さ、行こう」
入り口で券を渡すと、千切られて戻ってくる。
その不揃いなのが気になる。…忘れようとする。
入ってすぐのところに背の低いラックがあって、園内マップが差し込まれていた。
一枚摘み上げる。息子がほしがったので「はい」と渡す。
しかし、すぐにもなくすに決まっている。
もう一枚、自分用に。
すぐ先にぼたん・しゃくやく園がある。
そう思うまもなく、こどもたちがそっちに向かって駆け出す。
「あぶないから。はしらないで」
いいじゃないか、とあの人は言う。
こどもたちがぼたん・しゃくやく園に入っていく。
そこには若いカップルや老夫婦がたくさんいた。
白、ピンク、赤紫、色とりどりに今がちょうど見頃なのか。
それぞれの花の前に札が立っている。
「初日出」だとか漢字ばかり、へんな名前がつけられていた。
多くの人たちが無害な笑顔を浮かべながらデジカメにそれを撮っている。
本格的な一眼レフを構える人や
折り畳みの椅子を用意して熱心にスケッチをする人もいた。
いったい何が楽しいの?
そういう人たちがこの世界には存在する。
おかしな世界に私は住んでいる。もう何年と。何十年と。
いつから? いつのまに?
あの人が私のすぐ横に立っている。
子供たちの笑顔。
視線をそらすと、目の前に大きな温室が建っているのに気付く。
くぐもったガラスの向こうに背の高い緑色の植物が生い茂っている。
気がつくと私は指を伸ばして、「あれ」と言っていた。