九月に入るといつも思い出すことがある。
あれは僕が十八歳、上京してきてようやく東京に慣れ始めた頃の話だ。
僕は安い木造アパートの二階に住んでいた。台所と一部屋あるだけ。
エアコンもついていなかった(その年は記録的な冷夏だったからしのげた)。
田舎のように隣近所の付き合いがあるわけではなく、
アパートの人たちと階段ですれ違っても互いに顔を伏せて終わり。
右隣の部屋はなぜかずっと空いていて、誰か入ってきてもすぐ出て行って、
左隣の角部屋には僕よりも何歳か年上の男性が住んでいた。
恐らく学生ではなくて働いていたのだと思う。大人に見えた。
時々、廊下で女の人が煙草を吸っていた。
左隣のドアの前で。丸椅子に座って。足元にコーラの缶を置いて。
男物のサイズの合わないシャツか何かを着ていることが多かった。
男性よりもさらに年上のようだった。
壁が薄くて隣の”物音”が聞こえてくる。
だから最初のうちはなんだか気恥ずかしかった。
しかし、いつのまにか僕も一緒に煙草を吸うようになっていた。
…と言っても何を話すわけでもない。ライターや煙草を貸し借りして
「一雨来そうですね」とこちらから話しかけて、それっきりのような。
彼女はどことはなしにこの世界を力無く眺めていて
僕はただの傍点のようなものでしかなかった。
そして九月となる。
夏の終わりを告げる夕立があって、隣からは大声で喧嘩する声が聞こえてきた。
何かが何かにぶつかって壊れる音がした。僕は手を止めてその部屋の方を眺めた。
やがて雨がやむと共に静かになった。
しばらくしてスーパーに買い物に行こうと外に出たら
女の人がいつもの丸椅子に座って泣いていた。
煙草を吸いながら。背中を揺らして。声も無く。
よれよれの肌着のような淡い色の薄手のキャミソールを着ていたように思う。
僕は何も見なかったことにして階段を下りて、そのままスーパーまで歩いていった。
買い物のあいだ、一緒に煙草を吸うべきだったのだろうかといったことを考えた。
そのことばかり気になって、スーパーの地下をただグルグルと回って
何も買わずに帰って来た。
女の人はいなかった。丸椅子が倒れて転がっているだけ。
そして、その後二度と見かけることはなかった。
数ヶ月後には男性も引っ越していった。
ある朝運送業者のトラックを見かけてそれっきり。
二人のことを思い出すことも無くなった。
契約期間の二年間が切れて、僕もアパートから出て行くことになった。
僕は二十歳になろうとしていた。
二年目の夏は暑かった。
最後の日、僕は丸椅子に座って煙草を吸った。
コーラの缶に吸殻を捨てて、がらんとした部屋の中を眺めた。
背中を丸めて、錆びた階段を下りていった。