1993

九月に入るといつも思い出すことがある。
あれは僕が十八歳、上京してきてようやく東京に慣れ始めた頃の話だ。


僕は安い木造アパートの二階に住んでいた。台所と一部屋あるだけ。
エアコンもついていなかった(その年は記録的な冷夏だったからしのげた)。
田舎のように隣近所の付き合いがあるわけではなく、
アパートの人たちと階段ですれ違っても互いに顔を伏せて終わり。
右隣の部屋はなぜかずっと空いていて、誰か入ってきてもすぐ出て行って、
左隣の角部屋には僕よりも何歳か年上の男性が住んでいた。
恐らく学生ではなくて働いていたのだと思う。大人に見えた。


時々、廊下で女の人が煙草を吸っていた。
左隣のドアの前で。丸椅子に座って。足元にコーラの缶を置いて。
男物のサイズの合わないシャツか何かを着ていることが多かった。
男性よりもさらに年上のようだった。
壁が薄くて隣の”物音”が聞こえてくる。
だから最初のうちはなんだか気恥ずかしかった。
しかし、いつのまにか僕も一緒に煙草を吸うようになっていた。
…と言っても何を話すわけでもない。ライターや煙草を貸し借りして
「一雨来そうですね」とこちらから話しかけて、それっきりのような。
彼女はどことはなしにこの世界を力無く眺めていて
僕はただの傍点のようなものでしかなかった。


そして九月となる。
夏の終わりを告げる夕立があって、隣からは大声で喧嘩する声が聞こえてきた。
何かが何かにぶつかって壊れる音がした。僕は手を止めてその部屋の方を眺めた。
やがて雨がやむと共に静かになった。
しばらくしてスーパーに買い物に行こうと外に出たら
女の人がいつもの丸椅子に座って泣いていた。
煙草を吸いながら。背中を揺らして。声も無く。
よれよれの肌着のような淡い色の薄手のキャミソールを着ていたように思う。
僕は何も見なかったことにして階段を下りて、そのままスーパーまで歩いていった。
買い物のあいだ、一緒に煙草を吸うべきだったのだろうかといったことを考えた。
そのことばかり気になって、スーパーの地下をただグルグルと回って
何も買わずに帰って来た。


女の人はいなかった。丸椅子が倒れて転がっているだけ。
そして、その後二度と見かけることはなかった。


数ヶ月後には男性も引っ越していった。
ある朝運送業者のトラックを見かけてそれっきり。
二人のことを思い出すことも無くなった。
契約期間の二年間が切れて、僕もアパートから出て行くことになった。
僕は二十歳になろうとしていた。
二年目の夏は暑かった。
最後の日、僕は丸椅子に座って煙草を吸った。
コーラの缶に吸殻を捨てて、がらんとした部屋の中を眺めた。
背中を丸めて、錆びた階段を下りていった。