深夜の調剤薬局

学生時代のバイトのことをふと思い出す。
だいぶ昔に書いたことだけど、調剤薬局での夜勤の仕事。
急患のために夜間、窓口を開けている。
昼間の営業の終わった19時ぐらいから薬剤師の方と一緒に入って
処方している間に薬の点数を計算する。
それで明け方9時までだったか、10時までだったか。
1回につき1万8,000円もらえる。学生のバイトにしてはえらく時給がいい。
映画サークルのメンバーで曜日を決めて回していた。
僕は金曜の夜と、隔週で土曜。月に6回か7回は入ることができて
僕はそれと奨学金で食べていたようなものだ。


土曜から引き続き夜勤の日は金曜の朝方薬剤師の方が帰ったあと、
仮眠用のベッドでずっと寝てる。午後も遅くなった頃に目を覚ます。
まずは用意してきたシャンプーなどを詰めたリュックサックを背負って
近くの銭湯で一風呂浴びる。その後、昼飯兼晩飯をどこかに食べに行く。
東武東上線沿いに薬局があって、僕が住んでいた中央線の街からはほどよく遠い。
そういう普段とは違う街をブラブラと歩くのが楽しい。
とても長い商店街があって、アーケードで覆われていた。
最初のうちはあれこれ開拓しようとしたけど結局は3つぐらいの店に落ち着いた。
なんてことない中華料理屋であるとか。学生の通うような安い店。
(今でもあるのだろうか。懐かしい気持ちになって行ってみたくなるけど
 いつでも行けるとなると結局二度と行くことはない)
土曜は夕方五時からの勤務だった。
僕は決まって夜食に大きなサイズのカップヌードルかカレーヌードルを買って戻った。


あるときこんなことがあった。
土曜の朝、薬局を閉めてさあ寝るかと思ったら電話が鳴り出した。
基本、処方された内容の問い合わせが多いのでバイトの学生ではなく
薬剤師の方が電話を取ることになっている。それに営業時間も終了している。
僕が取る必要はない。
そのうち諦めるだろうと電話の前でそれとなく待ってみる。
しかし、いつまでたっても鳴り止まない。
顔を洗って歯を磨いて、いつでも寝られる状態に準備する。
それでも鳴り止まない。


あることに思い当たって、ゾッとした気持ちになる。
僕の働いていた薬局はとある総合病院の近くにあって
時々精神科を受診している方も薬を受け取りに来ていた。
多くの人はごく普通の受け答えをしていたけど
時々こちらでも対処に困ってしまうような方が居座ったりすることもあった。
ノイローゼ気味の電話を掛けてくる方もいた。
今かかってきている電話はそれじゃないか。
その人は電話機の前にいて、無言で、身動き一つせず、
誰かが電話を取るのを待っている。
そしてそれを止める人は周りに誰もいない。


恐くて電話が取れなかった。何を言われるか分からない。
会話が成り立たなくて、僕が何か言ってもまた掛けてくるのではないだろうか?
僕は寝てしまうことにした。
予備の布団と2枚重ねて音が聞こえないようにして
思いっきりかぶって中でうずくまる。
だけどどこかでかすかに耳を澄ますと聞こえてくる。
眠れない。眠いのに、眠れない。


それでもいつのまにか眠っていたようで、午後のどこかで目を覚ました。
夢うつつの中で電話が今も鳴り続けていることを知る。
布団から首を出すとはっきりと聞こえた。
そこから逃げ出したくなって、リュックを背負い、慌てて鍵を掛けて銭湯へと向かう。
眠くてボーッとした頭で湯船に浸かって、そのあとよく行くとんかつ屋へ。
もそもそとロースかつ定食を食べて、カップヌードルを買って帰る。
鍵を開けると、当然のように電話が鳴っていた。


あと30分で開店。途方に暮れる。待合室のソファーに寝っ転がって考える。
天井を眺める、壁のタイルを数える。
どうしたらいいんだ?
いや、どうしたらいいかは分かっている。どうしてそれをしないんだ?
僕は意を決して、調剤室に入って受話器を取った。


「はい、××薬局です」


ツー・ツー・ツー


電話は最初から切れていた。
誰かが掛けて、切ったつもりになって受話器が外れていたのか…
向こうで誰かが無言で息を潜めているという感じはしなかった。


ホッとしたのも束の間、僕が最も怖くなったのはその瞬間だった。
ばかげたことに怯えていた、なんて自分に腹を立てたりはしなかった。
この世の中はどこかで何かがよじれていて
ふとした弾みにそれが表に出てくる。それを垣間見ることがある。
僕が体験したのは、そういうことだった。


どうしていいか分からないままその広い空間に1人きりでいて、
落ち着かない時間を過ごす。
薬剤師の方が来ていつものようにテレビをつけて
バラエティー番組にチャンネルを回したとき、
そしていつも見慣れた芸能人がそこにいるのを見たとき、心の底からホッとした。
ああ、この世界はまた元通りになったと思った。


忙しく仕事しているうちに眠くなって、仮眠をとって、
患者の方が来てチャイムで起こされて。
次の日の朝疲れきってボロボロになって
ほぼ徹夜明けで電車を乗り継いでアパートまで帰ってきた。布団に潜り込む。
シーツがひんやりと冷たかったことを今でも覚えている。


その後もずっと卒業までバイトを続けた。
あの日のような電話がかかってくることは、二度となかった。
働きだしてから、今に至るまでも。