書くということ

書くとは、(言葉の中でも)文字というものを使って「伝える」ということ。
自分の外に発したならば、放ったならば、あとはそれがどう「伝わる」か。
特定の誰かに。不特定多数の誰かに。
本質的に、書くという行為は”記録に残す”ためというよりも
”記憶に残す”ためなのだと思う。読む側のどこかに響いて、痕跡を残す。
あわよくばその振る舞いを変える。
”記録に残す”のだとしてもそれは、誰かにそれを受け取って欲しいから、
そのことが何かを変えるきっかけになってほしいから、なのである。
例えば教訓であったり、社会のルールとして考慮すべきことであったり、
将来的な予測を立てるためであったり。
誰も読まなくてもいいことを残したって仕方が無い。


さて、あなたは何かしら文章を書いたとする。
もう一度繰り返すがそれ自体が目的となってはいけない。
読まれて、それがどう受け止められたかが大事。というかそこからがスタート。
問題はこの、「どう?」というところ。
あなたが望むようには周りの人は読んでくれていない。
いや、書かれている内容そのものは明瞭かもしれない。
そしてそれを提示する方法も明確かもしれない。
しかし、それを読んでどう”思う”かはその人次第だ。
物事の見方・視点には様々あるし、そのベースになる個々人の経験もまた千差万別。
そこにさらに読んだときの状況というものもまた加わるのだから、
なにが生まれてくるかは分からない。
「誤読」したとしても責められないし、それが全て書き手側の責任ということもない。
というか基本的に、書き手の望んだようには読み手には伝わっていないものなのだ。
そしてそれは文法や語彙やその人の言語能力・作文能力の問題ではない。


最近思うに、これは何も”諦める”ってことではなくて、
書く側はあくまで選択肢を広げているのだということ。
で、読む側がその中から選ぶ。
読むとは、選ぶこと。
どのように理解するかを選ぶ。コンテクストを選ぶ。受け入れる知識や情報を選ぶ。
ゆえに双方向のやりとりなのだということ。
それはむしろ常に揺らぎ、伝えていくうちにどんどん変わっていく。
そのとき選んだ何かを付け加えるからこそ、伝わるのだ。


書き手の伝えたいことが読み手にて一字一句そのまま繰り返されたら
それは伝わったことにはならない。叩き込まれたというだけ。
そこにあるのは空虚な言葉の残骸だ。
とある国のフィクショナルな社会体制を考えてみてほしい。
それは言葉を、思考を、制圧しているということになる。


そしてこのことは書くに限らず、
話すということにおいても本質的に同じである。