時間という生命

常駐先のオフィスの壁に掛けていた安物の時計。
昨日の夕方見たら1時間遅れていた。
どうしたのだろう? と思って時刻を合わせておいた。
帰りがけに見てみたら止まっている。
先ほど合わせた時刻から少しだけ進んで。


今日の朝になって見てみるとやはり止まったまま。電池切れか。
そんなたいした額じゃないし、コンビニに行って単三の乾電池を買って戻ってくる。
(会社の備品として購入した時計じゃないので、扱いが微妙なのである)


時計を見ると、秒針がピクピクと同じところで動いている。
完全に静止したわけじゃない。
なんだか生き物のようだ。死にかけた、か弱い生き物。
力の無い秒針に心臓の脈動を思い起こす。


このときふと思う。
生き物のように感じたのは時計に対してなのか、時間に対してなのか。
真っ当に考えれば時計ということなんだろうけど、なんというか、
ロボットの身体を動かす意思のようなものが時間なのではないかと。


いや、どう現れるかに関係なく絶対的に進んでいくのが時間というものじゃないか。
そう考える人もいるだろう。というか普通そんなふうに考えるだろう。
しかしそれも、その「時間というもの」を物理的に計測可能なものと
してしまったから、そのように感じられるというだけなのじゃないか。


いや、いや。
時間そのものは客観的・絶対的なもの。
「時間の流れ」は主観的なもの・相対的なもの。
そのように整理すべきなのかもしれない。
そして僕が先ほど止まっている時計に見たのは、「時間の流れ」の方の停止なのだ。


乾電池を入れ替える。
何事もなかったかのように秒針がまた動き始める。回転する。命を吹き返す。
僕は1つの命を救ったのかもしれない。なぜかそんなふうに思う。

    • -

それにしても。
アナログな時計が秒針/短針/長針共に1回転することでそれぞれ時の経過を
表すようにしたこと、これがとても興味深い。
見た目には戻ってくる、繰り返すものとなる。
上から下なのか左から右なのか、
先へ先へと進んでいく形式で表さなかったということ。
歯車の形状のアナロジーとか、あるいは太陽や星空の東から西への移動とか
様々なヒントがあったんだろうけど。


この回転が時間というものの捉え方・イメージを規定した、…のか。どうなんだろう。
キリスト教の思想が根底にある西洋人にとって時間とは究極的に
始まりがあって、(ヨハネの黙示録に現れたような)終末・終局へと向かうもの。
回帰という考え方は概して東洋的に思う。
なぜあのような時計のあり方を何百年も前の西洋人はよしとしたのか。


今少し考えてみたところでは、僕個人の意見として、
西洋人は時計の針を見るときにあくまでその時々における位置が重要で
(だからデジタル時計というものが生まれた。より合理的に表すために)
東洋人はその時々の動きの方が重要だったりする、ということなのかもしれない。


そう、最初の話に戻ると
時間を時間として見るか、流れとして見るかということ。
関係性において捉えるのか、それ自体充足したものとして捉えるか。


いや、西洋人も東洋人もないか。