日常というもの

昼に床屋で髪を切っていたらラジオがかかっていた。
TBSラジオ大沢悠里のゆうゆうワイド」が
開局60周年とかでスペシャル番組だったか。
その途中で「小沢昭一的こころ」というコーナーがはさまる。
今週のテーマは「ナイショナイショの日記について考える」
http://www.tbs.co.jp/954/ozawa/


その中で言われて気付いたことなんだけど、今日は天皇誕生日だった。
すっかり忘れていた。思い出したからどうこうってことはない。
「あ、そうだったのか」というだけ。
昭和8年のこの日、夜、日本全国でサイレンが2回鳴らされた。
1回なら女の子、2回なら世継ぎの男の子と事前に決められていた。


この日の永井荷風『断腸亭日常』を読むと、そのことについての言及はなし。
体調が思わしくなく、薄いお粥を食べたという記述しかない。
寝そべって顔を剃られながら「うーむ、そういうものなのか、さすがだ」と思う。
これでこそ、日常。


世の中の人は日記を書くというとき、
世間を賑わした出来事のあれこれをこと細かく書くものなのだろうか?
少なくとも僕は書かない。
だから読み返してもその時々で何が起きていたのか、何が話題だったのか、
全然思い出せない。
自分には特に関係がないということなのだろう。
通り一遍の興味はもつが、通り過ぎていくだけ。
記録はどこかにあればいい。
自分が記憶したいこと、心に響いたことだけを書けばいい。
「身」の周りと思うことだけを。
視野は狭く、視点は少ない。でも、そういうものなのだ。
素の自分にはたいしたものは残されていない。
諦めや言い訳ではなく。ただ、そういうものだとして続けていく。


とはいえ、日々同じ事を永遠に一定のルールで繰り返しているのではなく。
俯瞰して見ると何かが少しずつ、大きく変わっていっている。
世相に引きずられるもの。意識下・無意識下で自分が変えようとしていること。
そういうものがなければ、嘘だ。日常ではない。
そのことに気付くかどうかが、問題なのだ。