AさんからBさんへと容易に、かつ正確に伝えたいことを伝えることができたならば、
人類に文化というものは生まれなかった。
欠落したものをどうやって埋めるかという方法に、その可能性の幅に文化は生まれる。
これまで僕は物語というものは個人から個人へ、集団から集団へ、
ひとつの話が受け取って手渡される間に変化していくというモデルで考えていた。
先日話していて指摘されたのが
人々が集まって話を持ち寄って交互に披露していく、という形式もあるということ。
例えば猟師たちが浜辺で焚き火をしてその周りで輪になって。
時としてそこに旅人が加わって…
今、ギリシャ神話集を読んでいて、やはりそういう場面が出て来る。
『デカメロン』や百物語なんかもそうですね。
物語とはまず、「持ち寄る」ものだった。
そのお話というものもてんでバラバラとはならない。
顔ぶれやそのときの状況からテーマが決まって、
その人が蓄えているお話の中から相応しいものが選ばれる。
それは頭の中のものをそのまま再現するのではなく、
聞き手があって語っていくうちにその場の流れのようなものを感じて変化していく。
長くもなれば短くもなる。登場人物の名前が誰かに因んだものとなったり、
最近聞いたばかりのちょっとしたエピソードを足してみたり、即興で笑いを取ったり。
ひとつ語られ終わると、次の人が引き継ぐ。場を「受けて」話し出す。
それらの話が少しずつ絡み合って、相互に足したり引いたりしあって、
ひとつの物語となっていく。
今の世の中に欠けているのはそれなのかな、とちょっと思った。
話したいことを話すのではなく、ディベートするのではなく、
話を持ち寄って順番に披露する。周りの人たちを魅了するように語る。
共有、共鳴。聞き手の想像力を広げる。
そこでは単に一方的な話す力・聞く力ではなく、
当意即妙なしなやかな知性、自由自在に交換する能力が求められる。
身体を使って大胆に表現することだってあるかもしれない。
そう、その場の空間性を意識する。
時にはそこにあるものを取り入れて、利用する。
やっぱ文字だけで一人で書いていると何かが閉じられていくなあ。
どこにどんなふうに「外」を求めていくか。
それを具現化するか。
どこまで濃密に場と身体を感じさせるか、ということでもある。
そこのところが介在しないと、物語が物語として成立しない。