逃亡する生活

逃亡する生活について考える。
写真を見たら、痩せこけて別人に成り果てていた。


人目につかないように、そっと息を潜めて生きていく。
意味のあることは何もできない。
何年も何十年も毎日をただ同じものとして食いつぶしていく。
その微かな、ほんの些細な差異に喜びや悲しみを見出す。
いや、それも不安に全てが押し潰される。
巨大な、空を覆うような不安。
漠然とした濃霧のような不安。
長い間を共に過ごしたとき、それに名前をつけてひとつひとつ数えるようになる。
顔色を伺う。それはいつか話しかけてくる。後ろをつけてくる。
そこから狂気が始まる。
そうならないための必死の闘いを、日々絶望的な努力で続ける。


誰か援助する人がいて生活資金を少し回してくれるかもしれないが、
そういう人たちと接することが危険なことにつながる。
職を見つけて働く。過去や名前を問わない仕事。
それがたいした収入にならないのは当たり前の話だ。
責任を負うことができないのだから。信用できないのだから。
心身使い果たすような過酷な労働であればあるほど、軽く見られる。
足元を見られて、搾取される。
そこまでして働かなければならないのだろうか。
生きていかなければならないのだろうか。
逃げることに意味はあるのか。
全てをはぎ取られて、何を求めたらいいのか。
何によって生かされているのか。


疲れきって何かが麻痺するのか。
いや、そんなことはないだろう。
むしろ研ぎ澄まされていく。何かに取り付かれていく。虜になる。
空は空の色をしていない。
どこまで行っても閉ざされた部屋の狭い天井に過ぎなくなる。
この世界そのものが牢獄であって、そこから逃れられない。
どこにいても変わらない。
あるとしたらそのような諦めか。


逮捕されてホッとするのか。
がんじがらめになった観念のバケモノからやっと解放されるというような。
そこから別の牢獄へ入るのだとしても。
しかし、たぶん、人は抽象よりも具体に包まれている方が気が楽なのだ。


人間というもの、多かれ少なかれ誰もが逃亡生活を送っている。