ぼくらが旅に出る理由

以下、とあるところに書いた文章です。

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僕も旅することが好きで、一般企業のサラリーマンとはいえ、
年に一度の一週間の休みは必ずどこかに出かけます。
これまではモロッコやペルーといった海外が多かったのですが、
今年はふと思い立って国内を、と
熊野古道をひとりきりで歩いてみました。


最初のうちはただ単に日常生活から抜け出すことを目的としていました。
仕事に疲れて、シャットアウトしたいという。20代の頃です。
しかしそれは、例え地球の裏側まで行っても
日常生活の延長になってしまうんですね。
「自分」というものとの接点を見つけないことにはどうにも落ち着かない。
珍しいものを食べて楽しかったとしても、どこか閉じられている。
日本に帰ってから使うものを探して、買おうとしていたり。
旅慣れてなくてあれこれまごついて
それはそれで疲れているから、というのもあるかもしれません。


しかしそのうちに一人旅も経験を重ねて、
海外の空港での振舞い方、交通機関の利用の仕方、
カタコトでの料理の注文の仕方などが身についてくると
殻に包まれた自分が少しずつ、少しずつ解きほぐされていきます。
開かれていきます。


地下鉄に乗って美術館へと出かけ、川下りの船に乗り、
そ知らぬ顔をして図書館に入ってみる、高い塔に上ってみる。
ああ、僕は今、この国の文化や歴史というものに触れているのだな、
壮大な風景と出会ったときに、
僕はこの「世界」と向き合っているのだな、と感じる。
僕はちっぽけな存在となって、とにかくいろんなことを見聞きして
多くのことを感じる。身を晒す。


××さんとは逆に、僕は旅先でこそ、無になります。
しかしそれは心地よい無です。
自分が「あたらしい知」を迎え入れる器になったかのような。


僕はその時・その場に立ち上がってくる一期一会の「知」というものを
どこかで読んだ本の中なのか、別の国・別の歴史のことなのか
これまでに体験した他の「知」と結び付けてみようとする。
それがふとつながったとき、この世界の途方もない広がりが
ほんの少しだけ身近なものになる。
あるいはその隅っこに加わっている。


いつもより敏感になった僕はこの世界からメッセージを受け取り、
僕もまた形のないメッセージを発する。
そこでは旅先でたまたま出会った人とのちょっとした会話が
ささやかな知の「交換」となる。
風景や出来事への応答もまた、言葉のない静かな交換となっていく。
そして日本に戻ってきたときにもその連鎖は余韻・波紋のように
しばらくの間、続いていく。


そのことに意識的かどうかということで
旅という行為のもつ意味は大きく変わるものです。


異なる文化の間を移動して、誰かに何かを運ぶ、伝える。交換する。
その担い手となったことの実感のあるとき、
その旅は得るものがあったと言えるのかな、と思います。