老子というもの

先週から、『バカボンのパパと読む「老子」』という
ドリアン助川の書いた本を読んでいる。
1章ごとに原文と口語訳と「バカボンのパパ語」訳とが載っている。
もちろん3つ目がポイントで、もちろん「これでいいのだ」で結ばれる。
http://www.amazon.co.jp/dp/4047315648/


分かりやすい。
昔、岩波文庫で出ているのを買って読み進めたものの、
忙しくなって途中で放り投げてしまった。
でもまあ今回読んでも「道」というものが分かりそうで分からず。
上手く言葉にならない。


読んでいて、あ、そうか、なるほどと思ったのは
書かれたのが戦国時代で大国も小国も戦争に明け暮れていた。
人の命というものがあっけなく奪われた。
老子はそれが耐えられなかったのだということ。
この世の中から争いごとをなくすにはどうしたらいいのか?
どこまで遡っていけばいけばいいのか?
問い続けるうちに、「無名の哲学」とでも呼ぶべきものに至った。
奢らず、誇らず、騙らず。
そこに、自然のうちにあるはずの素朴な生き方に、そっとその身を委ねる。
一言で言うと、バカになれ。


この本はバカボンのパパがどうこうというよりも
前文にあるように3.11を経て、この国の現状を見て、
書かずにはいられなかったというところが大きい。
これでいいのだ、で済ませられることが何一つとしてあるわけがない。
政治も経済も社会も全てが先行き不安なまま。
3.11が色褪せていくに従って、どんどん見通しが悪くなっていく。
そんな世の中を前にして、
逆説として、レトリックとして、それは発せられなければならない。
そういうことなのだと思う。


あらゆる立場の人たちが
利害関係に基づいて発言し、行動していたら
いつまでたっても収まることはない。
もう2500年以上も前に老子はそのことに気付いていた。
そこで譲り合うのではなく、そもそも全てを放棄すること。
個人というものすら、名前すら、放棄する。
そこまでしない限り平和な世の中はありえないということ。
自由はありえないということ。
老子の教えはその後の誰よりもラディカルで、アナーキーだ。