歴史と物語(再訪)

今回も某所に書いたことを。
これまで何度か話題にしてきたことですが。

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歴史と物語とは対になっています。切り離せないですね。
物語というメディアが口伝えに、そしてあるときから文字となって、
さらに近代では「小説」という形式をも生み出して
歴史というものを伝えてきました。


それは歴史的事実そのものを記録的に直接的に描写するということもあるし、
歴史を歴史足らしめる力学に基づいて寓意をもって語ることもあります。


なぜそんなことをしたのかというと、ひとつには
どうしても忘れるわけにはいかない出来事があって
次の世代の子どもたちに伝えたいというのがあったのでしょう。
大切な記憶を、時間と空間を越えて保持したい。
(そしてそれを共有している集団を共同体として切り分けたい)


山の中で予想外に大きな猪に出会ったときの対処の仕方だったり、
皆既日蝕がどれほど恐ろしい出来事であったか、だったり。
教訓とかメッセージと考えるとわかりやすいでしょうか。


それをただ普通に語っているだけだと
語るほうも聞くほうも飽きてきて次に伝わらずに途絶えてしまうから、
韻を踏んだり、節をつけて歌ったり、
話の筋にメリハリをつけて英雄と悪漢というようにキャラクター造型したり。
様々な工夫がなされた。
それがやがてホメロスの『オデュッセイア』となり、
司馬遷の『史記』となった。


(そして近代において伝えるべきはメッセージではなく
 ストーリーであるという転換がなされた。そして今に至る)


大事なことは、人から人へ語り継がれていくうちに
それはどんどん変容していくのだということ。


ただ単に伝言ゲームは難しいというのではなく。
周りの人から伝えられたものを自分もまた他の誰かに伝えていく。
そのとき、一字一句そのままとはせず、
自分なりの視点から足したり引いたり変えたりしたものを渡すということ。


その人なりの視点で新しい考え方を補ってみたり、
新しい出来事で語りの中のエピソードをアップデートしてみたり。


人間という生き物は
たくさんの経験や感情を抱えて生きるものですからね。
動かさずにはいられないんです。


そのズレとか差異というものが世代や地域の隔たりを経て
積み重なっていくうちに、その集団に「文化」が生まれていく。


最近そんなふうに思います。