[] (タイトル未定、冒頭)


「結婚は? まだしてないんでしょ? お母さんも、…やきもきし
 てるんじゃない?」
「最近は、帰っても言わなくなりましたね」
「あら、そう? 東京で、仕事が忙しいんだ。きっとそうね」
 もう一本飲むでしょ? 叔母は立ち上がり出て行く。僕は後ろに
手をついて、黒ずんだ柱の傷を眺めた。父の計ってくれた十歳まで。
このどっしりとした漆塗りのテーブルも、上って走り回って怒られ
たもんだ。
「長旅で疲れたでしょ?」キリンラガー。栓を抜く。注がれる。僕
は手をつけない。
 夕方、ローカル線に乗り換えて、ひとつ前の駅で下りた。海水浴
場がある。子供の頃、皆で来たことがある。そう、皆で。
 二台の車に分かれて、出かける。波打ち際にビニールシートを広
げて、赤・青・白のパラソルを立てる。シュノーケルをつけて泳い
でいると三人で腕や足を掴まれて、掴み合って、ふざけ合う。半ば
溺れて、気を失いかけるのが楽しい。駆け寄ってきた親たちに怒ら
れて、ふてくされて、クーラーボックスからファンタオレンジを取
り出す。ぬるくなっている。
 僕はコップのビールをグッと飲み干した。
「隣は?」
 叔母が僕を見る。その一瞬の後に右を向いて、「まだいらしてる
わよ。もう結構なお年になったけど」
 左の方は向こうともしない。空き家になっていたのを、今にも壊
れそうな廃屋になっているのを、日のあるうちに僕も見た。雨に濡
れて灰色になったソファーだとか、誰かが不法投棄したゴミが背の
高い草に覆われていた。窓ガラスが割れて、ボロボロになったカー
テンが風にそよいでいた。
 子供の頃、僕はその家の中で育ったのだ。その家の中でも、育っ
たのだ。「兄」と共に。「妹」と共に。
「お布団、二階のお部屋に敷いてあるから。あとは好きなように飲
んで。テーブルの上はそのままでいいから。歯ブラシは新しいのを
洗面所に」
 おやすみなさい、と言って叔母が廊下に出て行く。
 僕はテレビをつけた。そして消した。
 畳の上に寝転がった。
 何もかもが古びた匂いがする。
シャボン玉で遊んだ日のこと。雨の日に絵本を読んでもらったこと。
背中に書いた文字を互いに当てようとしたこと。煙草を持ち出して
怒られたこと。三人でカレーライスを作って庭で食べたこと。海辺
で拾った貝殻を交換したこと。
 何年前になるのか。今が三十七だから、三十年近くになるのか。
ひとつずつ違うから、兄は三十八に、妹は三十六になる。生きてい
れば。いや、もちろんどこかで生きているのだろう。
 僕は起き上がって、窓の障子を開ける。右隣の家。向かい側の部
屋の明かりが灯っている。同じように白い障子で閉められている。
しばらく眺めるけれども、何かが動く気配はなかった。
 …見ているうちに酔いが回ったように思う。肉や揚げ物の乗った
皿を台所に運んで、サランラップを食器棚に探す。冷蔵庫にそのま
ま押し込んで、コップや箸を流しにそのまま置きっぱなしにした。
洗面所で歯を磨いて、言われた通りに二階の部屋で寝た。僕が幼年
時代を過ごした部屋だった。それがグラグラと回っている。