言葉と視点

その歴史や社会や文化について何も語れないけど、
日本・中国・韓国・台湾の関係のことを時々考える。
尖閣諸島竹島に絡んで、不穏なニュースばかり目にする。


旅先で、とか。
個々人で向かい合っているとどこか理解し合えるのに
楽しいひと時も過ごせるのに、
少し離れたところにいる「彼ら」との間には政治が生まれている。
集団の力学って不思議、としか言いようがない。
そしていつのまにか、互いに「全体」の中へと巻き込まれている。


良くも悪くも、視点や視線の共有って言葉以上に強力なのだな、ということ。
しかも当人はなかなか気付かない。
最近そんなことを思う。


個人的には、それはアジアの方がヨーロッパよりも緊密に感じられる。
そしてそれは、言葉に出さないほど強くなる。


そのつもりはないのに、自分の考え方がとても日本人的になっていたり。
しかもそれを、切り離す方法が分からない。


視点や視線というものは、本を読んで言葉を解釈して身につけるよりも、
周りの人の真似をして、感覚的に受け継いでいくものだから。
それは違うんじゃないかと取捨選択を行なうことの方が少なく、
知らず知らずのうちに染まっていることの方が多いのではないか。


言葉は万能なようでいて、
五感で知覚した、体験した、そのままのものには勝てない。
言葉はそれを言い表そうとして、制御しているようでいて、
常に遅れている。
何を言ったところで、それは後付けの批評にしかならない。
そういうことなのだと思う。