「夏休み、1999」

一応、ドアをノックしてみた。最初は軽く、トントンと。次に強く、ドンドンと。
「キョ…」と言い出しかけてやめた。なんだか揉め事を抱えてるみたいでヤだった。
日差しが眩しい。後ろに下がるとうなじに当たった。そのまま空を見上げた。
階段を上って2階の真ん中の部屋。それとなく見てみたら新聞は溜まっていなかった。
でも、そもそもキョウコは新聞なんか読まないかもしれない。いや、読まない。
いたずら心が出てきてノブに手を掛けて回したら、回った。
なんとなく予想がついた。こうなるんじゃないかって。
そのままそーっとドアを開ける。中に入って後ろ手に閉める。
「おじゃましまーす…」薄暗い。明かりはどこだったか。ま、いいか。
冷蔵庫があってその向かいにユニットバスがあって、その奥に小さな部屋。
ツンと来る匂いがした。でも生ゴミとかそういうのじゃない。なんだろう?
畳。折り畳みの安いテーブル。机。本棚。テレビ。鏡台。雑誌の束。
真正面の窓が開いたままになっている。無用心だな。
締め切ってなかったからモアッと蒸し暑くはなっていなかった。
本棚を見るとわたしが貸してそれっきりになっていた漫画が入っていた。
「これ、わたしのなのに」手に取って立ったまま読み始めた。


「キョウコ、いないよね」誰かが言い出した。
電話してもつながらないし、メールしても返ってこない。
わたしの知る限りこれで3日。バイトにも来なかったって。
「タカシくんもさ、行方不明」そう、彼の場合は1週間になる。
タカシくんとキョウコはつきあってる。そう信じてる子もいた。
「だから消えたんだよ」「ふたり揃ってだと怪しいからさ」
誰かがタカシくんのアパートに行ってみたらおんなじふうに鍵がかかってなくて
普通に入ることができて、今すぐにでも帰ってきそうだった、でも帰ってこなかった。
わたしは違うと思う。ふたりはつきあっていない。
なぜってナガオカくんも消えてしまって10日になるから。
夏休みだからふらっと田舎に帰ったんだよ。あいつ、そういうとこ無口だからさ。
ほとんどの人はそう思ってる。ちがうよ。わたしだけは、つながりがあると思う。
だけど残念なことにわたしはナガオカくんがどこに住んでいるのか知らない。
だから証明できない。ああ、でもそのことは全然大事じゃない。
この夏の暑さにひとりずつ溶けて消えていなくなっていく。
そしてなにかしら、向こう側にいる。わたしたちの知らないところ。
彼ら3人にいったいなにがあったのか。
なぜ、わたしには「なにも起こらない」のか。
今、この瞬間にも誰かが同じようにアパートの部屋の中からいなくなっている。


遠くの路地のどこかで、カキ氷屋がラッパを鳴らしてゆっくりと通り過ぎる。
おばあさんが鐘のついたリヤカーを引く。群がる子どもたちの声。
わたしはハンカチで汗をそっとぬぐうと茶色の鞄の中にしまった。
急いでめくって漫画を読み終える。もって帰ろうか? いや、そのままにしよう。
本を戻した。ギー。…え? そのときドアの開く音がした。
「キョ…」振り向くとそこには知らない誰かが立っていた。
「だれ?」わたしと、その人の声が重なった。「そっちこそ」
男の子。同い年だと思う。なのに知らない。タカシくんやナガオカくんの友だち?
おかしなことにならないうちに帰った方がいいかもしれない。
わたしはその人の脇をすり抜けて靴を履いて出て行こうとした。
「待って」きみは? キョウコさんのこと知ってるの?「あなたは?」
「突然いなくなったから、気になって、来てみたら」
わたしは彼を見つめた。彼もわたしを見つめた。ふたりして、なにも言わずにいる。
「ねえ」(変だと思うかもしれないけど、僕の周りでさ、何人か消えてしまったんだ)
彼がそんなふうに言ってくれないかと思う。…もちろん、そういう話にはならない。
ただ、ごく普通のことみたいな感じでこんな話にはなった。
「ねえ」そうだ、どこかで冷たいものを飲まない? 暑いからさ。駅前まで出て。
わたしはどうしていいかわからなくなって、うなずいていた。
気がつくと靴を履いて階段を降りて、彼の横を歩いていた。
金網越しに線路を見下ろす小道。彼が立ち止まると目の前で電車がすれ違った。
(この人とわたし、どちらが先に消えてしまうのだろう)
「暑いね」彼がそう言うから、「暑いね」わたしも笑って繰り返した。