佐々木昭一郎と中尾幸代

数年前、スカパーで放映された佐々木昭一郎監督作品を
録画した方がいて、見せてもらった。
「四季・ユートピアノ」と「川の流れはバイオリンの音」の2本。
初めて見たのはもう10年以上前か。
会社の先輩に教えてもらって
TAMA CINEMA FORUM」の一環で上映されたのを見に行った。
そのときは「四季・ユートピアノ」と「夢の島少女」で、
「川の流れはバイオリンの音」は確か後から先輩に借りた。


この日はもう1本ドキュメンタリー作品も。2006年だったかな。
監督のミューズ、中尾幸代さんが
年齢を感じさせないぐらいに若くて驚く。


佐々木昭一郎監督の作品は「映像詩」と呼ばれるわけですが。
ほんともう、言うことなかったですね。
「四季・ユートピアノ」の海辺の馬車に出会う場面。
「川の流れはバイオリンの音」の川を行く舟の水辺スレスレの視点。


正直、ミモフタモナイけど
中尾幸代さんのあの笑顔と声と立ち振る舞いを見てるだけで
幸福な数時間が過ぎた。え? もう終わり? って。
(当時の日記を読み返してみたら全く同じことが書いてあった。
 成長しないね…)


人物が映っているとき、決して映像を俯瞰しないということに気づく。
ドキュメンタリーでも本人か撮影監督が言ってた。
神の視点はいらないと。あくまで人の視点で撮る。
それは中尾幸代さんの視点なんだけど、被写体もまたあくまで中尾幸代さん。
かと言って自分が自分を見つめているのではなく、ピュアに客観的。
その不思議な二重性で成り立っているんだな。双子のよう。
佐々木昭一郎監督がその視点を獲得できたのがすごい。
人を撮る。生活の中で撮る。いきなりはそりゃ難しくて、
「四季・ユートピアノ」では半年間、
あの老夫婦のところで暮らしたのだという。


そう、あのカメラは目の前の詩的な出来事をただ切り取るだけで
それ以上の意味づけをしないんですね。
「それがそこで起こっている」ということを神秘的にも美しくも捉えない。
それゆえに神秘的で美しくなるというか。
全てが絶対的な存在。
タルコフスキー監督の作品が一番近いか。