建築の話

昨晩は建築家の方と飲みに行った。
西新宿で待ち合わせたので、会社の人たちがよく行く
(ところを facebook で見かける)「タカマル鮮魚店」の3号店へ。
刺身の盛り合わせとポテトサラダと
毛ガニ付のカニクリームコロッケでおなかいっぱいになった。恐るべし。


建築の話から写真家:松江泰治の話になって
コクーンタワーの Book 1stに写真集を見に行った後で
京王プラザホテルの日本酒バーで一杯飲んで帰ってきた。


こんな話をした、そのうちのいくつか。


建築家の方は自ら設計した家に住むものなのだろうか。
家族があって、家庭があって、理想の間取りがあって
その通りに設計して家を建てて住むということは
建築家にとって幸福なことなのだろうか。
それとこれは別なのだろうか。
自ら住む家には何か別なことを求めていそうな気がする。
肉体は仮の宿りというのと同じで。


派生する話として。
建築家の住む家はその壁や柱に
額に入った絵や写真を気軽に飾ることのできるものなのだろうか。
描かれた光景もさることながら、絵の大きさや額の装飾など。
その空間に合う姿見を買うのも大変だ、と聞いた。


松江泰治の「風景」写真に思う。
建築とは抽象と具体の間を行ったり来たりすることではないか。
優れた建築物は抽象的な図面→具体的な建物と一方通行ではない。


そう言えば僕の好きなものは両極端で。
音楽で言えば内政的なシンガーソングライターのギター弾き語りと
ノイズまみれのヘヴィ・ロックが同居している。
ゼロかイチか。しかし、その間もまた好き。
特に決まった値、0.23といったようなものがあるのではなく、
ゼロとイチの間に潜む「たまたま」に出会うのがいい。


そしてその両極端がいつも同じとは限らなくて、時々変えていく。
狭めたり、広げたり、位置を変えたり、重ねたり。
間の数も、「たまたま」なのは変わらず、色合いが替わっていく。


また別な話。
室内、人の出入りする空間を照明や設えで「尽くす」建築家がよいのか?
いや、写真に撮られて美しいというような、
分かりやすい、建物の外観なら外観を極める、
それは上辺だけのようでいて、こちらもまた「尽くす」建築家なのである。