「フランシス・ベーコン展」

身の回りの人たちがけっこう見に行っているので
昨日の会社帰り、僕も見に行った。
国立近代美術館の「フランシス・ベーコン展」
3月からやってて、来週末で終わり。ほぼ駆け込み。
http://bacon.exhn.jp/


これまでフランシス・ベーコンは気にはなりつつも
どうしても、というほどでもなく。
グロテスクの本質、根源。
あのねじれた身体を前にしたら
近親憎悪みたいな気持ちを抱くんじゃないかと思っていた。


金曜の夜。入ってみたらかなり混んでいた。
最初ざっと駆け足で1周して、
もう一度気になるところを2回・3回と眺め直した。
そうか、と思った。
これは色彩とか構図ではなく、思想なんだなと気付いた。
漆黒の闇の中に浮かび上がる檻。
閉じ込められた肉体と声にならない叫び。
無神論者にとってのローマ教皇枢機卿スフィンクスといったテーマ。
ファン・ゴッホの憑依。
三幅対によって描かれた、物事の三つの次元。
「彼」は描いた絵をガラスで覆い、金縁の額で飾ることを求めた。


「ストーリーが生まれたとき、登場人物は自由を失う」
「モデルではなく写真を描くことで、
 肉体をいくらでも歪めることができた」
そんな解説文を目にしたとき、ぞっとした。
そして壁に書かれていた、ジル・ドゥルーズとの対話。
「目に見えるものだけではなく、感覚の全てをひっくり返したい」
だったか。


あの執拗なグロテスクさは
徹底的にストーリーから逃れようとした結果なのか。


最後、余りにも雑然とした生前のアトリエ。
ペンキの缶やマグカップへと無造作に投げ込まれた筆の束。
やはりこういうところからしか、感情や感覚というものは生まれない。


上の階の常設展と
東京オリンピック1964 デザインプロジェクト」を合わせて見た。
ポスターの躍動感には思わず息を呑むものがありましたね。
http://www.joc.or.jp/memorial/20080508.html
記念のタバコやピクトグラムも興味深かった。
常設展は相変わらず古賀春江の「海」で立ち止まり、
瑛九と靉嘔が気になった。


入り口でばったり教え子と会い、
別々に鑑賞した後で東西線に乗って日本橋へ。
COREDO室町地下の「タロー書房」に入って
上の階の焼き鳥屋で一杯飲んで帰ってきた。
変形した異物の肉を口に運び、体内へ取り込む。
そんな行為を無自覚に繰り返す自分がいた。