『パリ、テキサス』の名場面。
記憶を失って放浪する男。子どもを捨てて覗き部屋で日銭を稼ぐ女。
かつて愛し合ったふたりはマジックミラー越しに再会する。
男は昔話を始めて、女はなんとはなしにそれを聞く。
ライ・クーダーの手掛けたサントラではこのセリフのやり取りが
「I Knew These People」という曲になっている。
日本語訳を目にしたことがないので、試しに訳してみた。
脚本はサム・シェパード。
男:こんなふたりがいた。ふたりは互いに愛し合っていた。女はとても若くて
17歳か18歳、男はほんの少し年上だった。男はだらしなくてボロボロの服
を着ていた。女は、そう、美しかった。ふたりは連れ立って、目の前のこ
とはそれがなんであれ、胸のわくわくさせるような出来事に変えていった。
女はそれが好きだった。街の雑貨屋に行くことですら大掛かりな冒険にな
った。ふたりはいつもおかしなものを見つけては笑い合っていた。男は女
を笑わせることが好きで、ふたりにとってはそれ以外のことはどうでもよ
かった。互いに離れずにいられることだけが望みだったからだ。ふたりは
いつも一緒にいて、男は、…男は女のことをそれまで感じていた以上に愛
した。男が働きに行く日は女から離れることが耐えがたかった。だから男
は仕事をやめた。女の側にいるために。金がなくなると次の仕事についた。
そして今、男はまた仕事をやめた。女はすぐにも、不安を感じるようにな
った。
女:なんについて?
男:たぶん、金のことだろう。全然足りなかった。次の小切手がいつ入ってく
るか見当もつかない。
女:ああ、わかるわ、その気持ち。
男:だから男は、なんというか、心が引き裂かれ始めた。
女:どういう意味?
男:そうだな、その男は、女を養うために働かなきゃならないということはわ
かっていたけど、女の側にいないこともまた辛い。
女:名犬ラッシーね!
男:そして男は女から離れれば離れるほど、気がおかしくなっていった。今は
本当に気が狂ってしまったけどな。彼はいろんなことを想像するようにな
った。
女:例えば?
男:女は内緒で知らない男たちを眺めているんじゃないかと彼は考えた。男は
家に帰ってくると、他の誰かと昼を過ごしていたと言って女を責めた。男
は大声でわめいてトレーラーの中のものを壊した。
女:トレーラー…
男:そう、ふたりはトレーラーの中に住んでいた。とにかく、男はひどく酔っ
払うようになり、女が嫉妬するかどうか試すために遅くまで外を出歩くよ
うになった。男は女に嫉妬を感じてほしかった。しかし女は嫉妬しなかっ
た。女はただ、男のことを心配した。そのことがさらに男を狂わせた。男
は、もし女が彼のことを嫉妬しないならば彼女は男のことを心の底から愛
していないと考えた。嫉妬は男にとって、女が彼を愛していることの証だ
った。そんなある夜、ある夜女は妊娠したと男に言った。3ヶ月か4ヶ月
だった。男はそのときまで、そのことを全く知らなかった。そのとき全て
が変わった。男は酒を飲むことをやめて、定職についた。男は確信した、
女は男を愛している、なぜなら彼女は彼の子どもを宿しているからだ。男
は彼女との家庭をもつために自分自身を捧げることに決めた。しかし、お
かしなことが起こり始めた。それが何をきっかけとしていたのか、男は今
でも分からない。女は変わり始めた。子どもが生まれるという日、女は身
の回りのこと全てにいらだった。女は全てに対して気違いじみた振る舞い
をした。赤ん坊ですら邪悪なものに思えた。男はあらゆる物事を女にとっ
てふさわしいものにしようとした。買い物に出かけ、週に一度は外に連れ
出して食べさせようとした。しかし、女を満たすものは何一つとして存在
しなかった。男は二年もの間、ふたりが初めて出会ったときのように戻せ
ないかと奮闘した。しかし、男は何をやっても無駄だと知った。男はまた
浴びるように酒を飲んだ。だけどこのときは前と違った。男が遅くまで出
歩いたとしても、女は男のことを心配することはなかったし、もちろん嫉
妬することもなかった。
女は腹を立てただけだった。赤ん坊を生ませたことで私の自由を奪ったと
言って男を責めた。ここから逃げ出すことを夢見たと女は語った。それが
彼女の夢見た全てだった:逃れること。女は夜、目にした。裸でハイウェ
イを走り、草原を渡り、川床を駆け抜け、いつだって走り続け、男のいた
ところならばそれがどこであれ離れようとした自分を。男は女をどうにし
かして止めようとした。男はただそこに現れて女を止めようとした。女が
これらの夢を語ったとき、男はそれを信じた。男は、女が永遠に男の元を
去ろうとしているから、止めなければならないと知った。だから男は夜、
女がベッドから出ようとしたら気づけるように女の足首にカウベルを結び
つけた。しかし女はどうすれば音が出ないようになるか学んだ、靴下を中
に詰め込んで、ベッドから出て夜の中へ、少しずつ少しずつ歩いていく。
ある夜靴下が零れ出たとき、女がハイウェイに走り出ようとしていたのを
聞いて、男は女を捕まえた。女を捕まえてトレーラーへと引きずっていく
と女を彼のベルトで椅子に縛りつけた。男はその場を離れ、ベッドに戻り、
横たわって女が泣き喚くのを聞いた。そのとき男は息子もまた叫びだした
のを聞いた、だけど驚いたことに男は何も感じていなかった。男が望んだ
ことはただ、眠ることだった。初めて彼はどこか遠くへ、底のない深みの
中へ、誰も彼のことを知らない広漠たる荒野に行きたいと願った。言葉も
ない、知ってる通りもない、どこかへ。男は名前の知らないその場所のこ
とを夢見た。男は目を覚ましたとき、火に焼かれていた。青い炎がベッド
のシーツを燃やしていた。男は炎を潜り抜けて、愛する二人のもとへと走
った。しかし女も息子もいなかった。男の腕は焼け焦げ、外に飛び出して
濡れた地面の上を転がった。それから男は走った。振り返って炎を見つめ
ることはなかった。彼はひたすら、走った。太陽が昇ってもうそれ以上走
れなくなるまで、走り続けた。太陽が沈むと、また走った。五日間男は走
った。人間の痕跡が一切消えてなくなるまで。